シンポジウム『現代における宗教信仰復興を問う』京都会場の起こし原稿
13:00 開会、黙祷(進行 加藤眞三)
13:03 聖書朗読及び祈祷(小原克博)、法螺貝奉奏(鎌田東二)
13:10 挨拶 叢書編者 島薗進、国書サービス社社長 割田剛雄
13:20 討論開始(司会 小原克博)シンポジスト 岡田真水、鎌田東二、
水谷周、弓山達也)
15:00 休憩
13:15 再開 コメント(島薗進、加藤眞三)
16:30 横笛奉奏(鎌田東二)、閉会
13:00 開会、黙祷(進行 加藤眞三)
13:03 聖書朗読及び祈祷(小原克博)、法螺貝奉奏(鎌田東二)
13:10 挨拶 叢書編者 島薗進、国書サービス社社長 割田剛雄
13:20 討論開始(司会 小原克博)シンポジスト 岡田真水、鎌田東二、
水谷周、弓山達也)
15:00 休憩
13:15 再開 コメント(島薗進、加藤眞三)
16:30 横笛奉奏(鎌田東二)、閉会
1 挨拶
(加藤) ただいまから、この叢書の編者である島薗進先生よりご挨拶をいただきます。
(島薗)みなさまこんにちは。今日はようこそご参加くださいました。この宗教信仰復興叢書は、宗教信仰復興会議という集まりが企画をしまして昨年刊行されたものでございます。宗教信仰復興会議というのは、水谷周さん、この方は京都の法然ゆかりの浄土宗のお寺のご出身でございますが、志あって、信仰を求めた結果、ムスリムになられたという方でいらっしゃいます。そしてその甥御さんが、水谷亨(とおる)さんという方が同じく仏教の家に生まれられたけれども、神職を志していくつかの神社で修業し、奉仕をされておられた中で、若くして亡くなられた。その志を、亨さんのお母様がなんとか形にしたいということでご寄付をいただいて始まったという、こういう集いでございます。全8巻の叢書なのですが、第1巻が、現代社会、現代における宗教信仰復興を問うという題でございます。その執筆者は、プロテスタント、カトリック、神道、仏教、イスラーム、無宗教、スピリチュアリティ、新宗教とうようなバラエティーの立場から、執筆するということで本ができております。その方たちが集まってシンポジウムをやった京都の建仁寺の塔頭の両足院で行ったのでございます。そして刊行後に執筆者がもう一度集まってその内容を討議し直すということで一度は先ほどありましたように、東京のトルコ系のイスラームのモスク、東京ジャーミィで昨年の11月27日に行いました。今回は、二度目、この同志社大学をお借りして行うということになっております。重要なメンバーの一人の鎌田先生が、今京都のバプティスト病院で、先ほどの法螺貝は実は録画したものでございますが、病院の中でさすがに法螺貝を手術後に鳴らすわけにはいかないということで、いただきました。しかし、元気に今日はお話を病院から送ってくださることになっております。そういうことで、先ほどのお話もありましたが、まさに危機の時代、2022年は大きく何かこう暗いものが続いて起こったという、コロナ禍に続いてロシアの戦争、そして統一教会事件というようなことが起こっていずれも宗教に何か大きなことを問いかけているというように言えるかと思います。そういう問題について今日は、執筆者が討議をすると、こういうことでございます。刊行元の国書刊行会からも今日は割田さんに来ていただいております。みなさんどうぞじっくりと耳を傾けていただけますようによろしくお願いを致します。以上をもちまして島薗からの挨拶とさせていただきます。どうもありがとうございます。
2 討論
(小原) 改めて本日司会進行を務めさせていただきます同志社大学の小原と申します。これからスケジュールについて簡単にご説明をさせていただきます。ただいまから、4名の方々にそれぞれご講演をいただきます。岡田先生、鎌田先生、水谷先生、弓山先生の順番で、お一人20分の予定で、お話をいただきます。先ほどもご説明がありましたが、鎌田先生が病院からオンラインでご発題いただくということになります。その後、短い休憩時間15分ほど予定としておりますけれども、休憩をはさみまして、島薗先生、加藤先生からコメントをいただき、それを口火としてパネルディスカッションを、始めたいと思います。それから最後、会場の方々、それからオンラインにおられる方々からも色々なご質問をお受けしたいと思っております。少なくとも15分から20分くらいそのような時間を設けたいと思っておりますので、お話を聞きながらご意見がありましたら、最後にお出しください。ただしオンラインの方々からのご質問に関しましては今回チャットに限定することにしておりますので、オンラインで手を挙げて発話していただくということは今回致しませんので、何かありましたら、テキストとして少しおまとめいただいて後ほどチャットでご質問をいただければというふうに思っております。最後、16時30分には終了したいというふうに考えております。では、早速ですけれども4名の方々、20分ということでまず岡田先生からご発表をいただきたいと思います。よろしくお願い致します。
(1)岡田真水「危機の時代がもたらすもの―環境宗教学の観点から」
(岡田) 皆様、こんにちは。岡田真水と申します。私は本日の配布資料の発言骨子の1番「危機の時代がもたらすもの―環境宗教学の観点から」という題でお話させていただきます。私、実は京都生まれでございまして、旧姓を川勝と申しまして、秦河勝の子孫でございます。この先祖に関しましても、この後のスライドに少し出てまいります。22歳までは京都におりました。その後、東京に行き、そこで知り合った師夫と結婚致しまして、岡山のお寺に嫁ぎました。専門は、仏教文献学とか仏教説話でございました。阪神淡路大震災の後、古い文献学、古い革袋、これが一体こういう時代にどう役に立つのかと真剣に悩んでしまいまして、環境と宗教の関係について研究してみたいという思いを抱いて環境宗教学というものを立ち上げました。 今日は、私の研究の成果の一端を聞いていただこうと思って来ております。
のっけから申し訳ないのですが、私のレジュメの1行目に間違いがありますので、ご訂正お願いしたいと思います。「大きな環境危機は人類の歴史上何度もあった」の次です。「3000m級の山が」と書いておりますが、これは間違いでして、「4000m級の山が」でございます。4200mあったといわれている山が吹っ飛ぶというようなことがかつてありました。
この後のスライドに出てまいります。おそらく間違いはこれだけであろうと思われますが、また他にもあったらご指摘いただきたいと思います。
「危機の時代1」ということで少し時代は古いのですが、紀元前後に大きな環境危機がありました。実はこの「危機の時代」というのは初めてではなく、何度も人類は経験し、何度もこれをクリアしてきて今私どもはそのおかげでここにいるというわけです。この紀元前後も大干ばつに続く大飢饉があり、こうなると疫病も流行ります。ところがこの後、大きな仏教の変化がございました。紀元前1世紀にBeminitiya Seya (බැමිනිටියාසාය) と名付けられた大変な干ばつがありました。 私はこの正しい発音を知らないのですが、これはシンハラ語で“大干ばつ”という意味であります。 その頃ちょうどインドからタミル人が南下してきます。なぜ南下してくるのか。それはインドで生活が非常に難しくなってスリランカの方にきているわけです。環境危機があると、大体南下するのですね。疾病が蔓延し、大量死が起こっております。お坊さんたちもたくさん亡くなりまして、仏教が衰えるという事態になりました。この時に、実は、初めて経典のテクスト化が始まりました。これがあきらかになったのは新しい仏教研究の成果でございます。経典は元々暗記をして伝えていましたが、暗記をして伝えるためにはたくさんの人数が必要です。ところが、書いたものにしますと、書いたものがそこにあれば、それをお守りするということで、もっと少ない人数で教えを伝えることができます。この書くという習慣は西から来た習慣だそうなのですが、これがこの時代に始まっているそうです。紀元前後ですね。ちょうどその頃の最古のガンダーラ写本が見つかっているそうです。この大乗仏教というのは、この「書く」ということで始まっているという学者がいるぐらいでございます。紀元前1世紀ごろ、Vaṭṭagāmaṇi Abhayaヴァッタガーマニ・アバヤ王(前103−77年)王の時に
「生類が減った(hāni f.減損、退失)のを見て集まった托鉢修行者たちは教えを久しく存続させるために、三蔵の本文と注釈を [三蔵の本文とその注釈]を]写本に書かせた。」(『島史』XX,21=『大史』 XXXIII 101
「島史」というのはスリランカの歴史書です。「大史」もそうです。ディーパヴァンサ、マハヴァンサといいます。古代インドは歴史を書き残さないのですが、スリランカは立派な歴史書がございます。ただその成立は少し時代は下ります。このちょうど写本の古さと、この記述内容が一致しているということで、先ほど申し上げましたBeminitiya Seya“大干ばつ”の時代を経て、仏典の書写が始まっただろうということが今言われております。
生類が減ったのを見てというのは、新しい訳であります。それまでは、生類が堕落したとか、色々な訳がありましたが、数が減ったということであります。これは環境異変をうかがわせる非常に重要なところであろうと思われます。大乗仏教はそうしてテキスト化された仏教であるということが、20世紀末くらいから、大乗仏教研究者の間で有名になりました。
その後、危機の時代はまた来るわけですが、これに古墳寒冷期という名前をつけた研究者がいます。大体3世紀の半ば、246年という時に、環境の画期が起こっているそうです。それは屋久島の杉の花粉の研究で、阪口豊という人が言い出したことですが、この246年は非常に重要な年でして、その直後くらいに卑弥呼が死んでいるのではないかという感触を私持っております。急に寒冷化するのです。寒冷化だけではなく、乾燥します。普通の寒冷化の時は乾燥ではなく、霖雨とか雨が降り続くことが多いのですが、この時は、乾いてしかも寒いという田作には最悪の時代でございます。これをどう克服したか。ここで私の先祖が出てくるのですが、たくさんため池を作りました。京都は皆さんご存じのように京都市の下には、すごく大きな帯水層があって琵琶湖の水と同じぐらいの水があります。楠見晴重先生が京都水盆という名前で発表されました。なぜこれほど気候も悪くて住みにくい京都が1000年も続く都になったのか、それは都の下に水がいっぱいあったからです。そういう水を湛えた土地柄であったということですが、秦氏はここで一生懸命河川改修をし、また方々にため池を作りました。ですから自分たちのライバルになる人たちを攻めて支配したり、滅ぼしたりして生き残ろうとしたのではなくて、皆で力を合わせて池を掘って、与え合うことによって生き延びたということが窺われます。崇神天皇の即位5年目に日本最古の疫病の記録が記されています。鎌田先生もそのことをこの宗教信仰復興叢書の163頁に書いてらっしゃいました。日本書紀には人口の半分が失われたとあります。そのあくる年も大変で、崇神天皇が神様のお祀りの仕方を変えられました。天神である天照大神と地祇である大国主尊を分けて祀るようになられました。それから、その戸籍も整備したところ、天神もこの地上の神も共に助け合い、ようやく風雨が時にかなったようなり、お米や穀物ができるようになり、天下が治まったので、この崇神天皇を始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と呼ぶようになったという記録があります。
それから崇神天皇の統治時代は、これだけではなく、たくさんの異常気象や疫病の記録が残っております。次に示す異常気象は、即位62年のものです。「「農天下之大本也。民所恃以生也。今河内狹山 埴田水少。是以 其國百姓 怠於農事。其多開池溝 以寛民業」(農は国の本なのに、いま河内の狭山の田圃は水不足で、そのために民は農事に励まない。ため池や水路を掘削すれば民もくつろぐだろう)」という渇水記録が記されています。ちょうどこの頃、渡来の人たちも渡ってきているようです。これは古墳乾燥期の記述ではないかと思われます。
そこでため池を3つ作っています。依網池(よさみのいけ)、苅坂池(かりさかのいけ)、反折池(さかをりのいけ)という3つのため池を作っています。この天皇陛下の御陵をフィールドワークしたのですが、堀というには大きすぎる。これは池だと思いました。ここでインスピレーションが湧きました。周濠つき古墳は池を掘って出た土を真ん中に盛った残土処理じゃないだろうか。池を掘った残土を外の堤と真ん中の古墳にするということは考えられないかと九州大学の河川工学の島谷幸宏先生に話したところ、「それはある。河川などの土木工事で一番困るのは残土処理なんだよ。『民らよ、お前たちのために池を作ってあげよう。掘る時に出た土で私の墓を造るように』というようなそういう感じでできたんだろう。」とおっしゃいました。危機になると色々なそういう新しい宗教が信仰されるようになります。
これはよく入試などで出てくる年表ですが、ここが246年で、急激に寒冷化します。寒冷化のピークが270年辺に来まして、中休みを挟んでまたすごく寒くなります。やはり大きな王朝が続かないわけです。五胡十六国であるとか、朝鮮半島でしたら三韓時代、日本も倭の五王の時代という感じで政権が次々に変わります。その後、世界初、最古のペスト記録が出てきます。恐らく今のこの比ではないようなすごい気候変動とそれから疫病の蔓延であったと思われます。
これで収まったかなと思っていましたら、その次の聖武天皇の時にも災害と疫病流行がありまして、その時に聖武天皇は自分1人でお寺を建てるのではなくて、国民皆と共に建てたいという誓いをたてられました。国民が合力をしてここを乗り越える。その時、政治の根幹に仏教を置こうという大きな政策転換がありました。
その次は、東日本大震災の時に千年に一度と言われた、その千年前の大津波のあった貞観11年あたりの天変地異を示す年表です。平安時代9世紀あたりの天変地異を見ますとすごいです。この大津波の年に疫病が流行りまして祇園祭が始まりました。
祇園祭は一旦応仁の乱の時に途絶えますが、その後、復興を示すために祇園祭も復興しているという記録があります。民族消滅の危機には、異質な人たちや新しい人たちを排除したり、あるいは滅ぼそうとしたり、収奪をしようとしたりしても続かない。連携して尊重してお互いに与え合う。難しいですが、こうしないと乗り切れないということです。
さらに、13世紀になりますと、インドネシアのロンボク島というところで大噴火があり、先ほど言った4200mの山が吹っ飛んで、世界中がこの影響を受けるようになります。これが1257年の大噴火で、日本でも正嘉の大地震がありました。(この度も東日本大震災のまえにインドネシア地震インド洋津波がありました。)ヨーロッパも影響を受けて全然熱くない夏になったという記録が残っています。火山噴火はすごく怖いです。長い間火山灰が太鼓圏中に漂って太陽の光を遮りますので影響が長く続きます。この世界人口のグラフを見ていただきますと、これまでペストが何度も起こって量死が起こっています。13世紀の火山の噴火の後も、14世紀にはペストの流行があり、1348-1351年の3年間でヨーロッパ人口の⅓が失われ、1331年には 中国人口の⅔が失われたという記録が残っています。このように人口が増えて人口圧が高まったところへ寒冷化や災害がおこると疫病が流行って人がたくさん死ぬということがこれまで何度も起こってきたわけです。
日本で鎌倉新仏教運動が興ったように、ヨーロッパでも新しい信仰活動が起こります。疫病を恐れ神にすがろうとする人たちは、「とりなし」を求めたが、神父が祈っても、教皇が祈っても、疫病の鎮静化する気配はなく、やがて人々は教会に対して不信感を抱くようになります。これが十六世紀の宗教改革に繋がったのである、という説を、元国立感染症研究所室長の加藤茂孝氏はとなえています(朝日新聞 2021年9月30日)。ペスト史の研究者の石坂尚武氏も「教会や聖職者を介さずに直接天国への道を目指し」た民衆たちの新しい「宗教的信心」の翔長に言及しています(2018『苦難と心性 イタリア・ルネサンス期の黒死病』刀水書房)。
このように歴史上何度も何度も、大きな気候変動、天変地異、それから疫病によって我々の先祖たちは数を減じ、大変な目に遭いながら、智恵を出し、新しい技術を使って、そこをどうにか生き残ってきました。過去の歴史的環境危機と今日のそれを比べると、これまでとは全く異なる要素があることに気づきます。その1は、人類がかつて経験したことのない人口圧。その2は、現代の気候変動が自然現象ではなく、他ならぬ人類が起こしたものであること。第3は原子力に関わる環境危機です。この放射性廃棄物の憂鬱。一旦原発事故が起こり汚染されますと、これが元に戻るには10万年かかると言われていますね。これが、私どもが経験したことのない危機です。
かつては、祇園祭を、その前はため池や河川改修を皆が力を合わせて乗り越えてきた京都ですが、京都で何かあったらどうなるのでしょうか。私は大変心配です。今日はそういうことを残された討議の時にまた考えてみたいと思います。これで私の発題を終わります。
(2)鎌田東二「危機と問題解決に向けて」
(鎌田) 皆様、こんにちは。今日の話は、まず、①現代の危機について話をし、②平安京遷都の時代の危機、③平安京に対抗軸、つまり鎌倉幕府などができた時代、11世紀から13世紀頃にかけての危機、④近代の東京遷都時の近代化の中の危機、そして、⑤現代の京都の危機という流れで見ていきます。現代の危機については、私は「絶体絶命」という深刻な危機感を持っていますが、まず一番大きいのは環境危機です。大変大きな環境変動、気候変動がある。そこに原子力発電の問題なども重なっていますが、トータルには環境危機です。その上に、食糧、エネルギー、経済、政治、文化、教育、家庭環境、健康などの危機があり、さらには宗教危機もある。宗教がある面では力を失い、ある面では宗教的な力が爆発するという側面があります。
環境的危機については、つい最近、大みそかの日に、山形県鶴岡市の住宅の裏山が崩れ、約10棟が倒壊し、亡くなった方がおられます。また、正月明けて1月12日にはカリフォルニアで大規模な洪水が起きました。冬期にこれほどの洪水があるというのは予想外です。北半球ですから、寒波がくるのはよく分かりますが、暴風雨と洪水で町が水浸しになっています。また、昨年、千年に一度の異常気象がイギリスで起こり、40.3度の猛烈な熱波がありました。こういう、考えられないような事態が頻発している状況なので、私は非常に危機感をもって、昨年2つの『絶体絶命』を出しました。一つは第4詩集の『絶体絶命』、もう一つはサードアルバムの「絶体絶命」と題したCDです。
それでは、8世紀、平安京遷都の時代の危機というのは、どういう危機であったかというと、平城京に住めない、長岡京も長く続きそうにないという主として政治的危機で、それを打開するために桓武天皇が平安京に遷都しました。その平安京の土地を提供したのは秦氏です。そこに賀茂氏や藤原氏が絡みながら都城建設を進めていきますが、平安の都といいながらも実際は不安の都です。御霊信仰もそうだし、政治的にも宗教的にも荒れに荒れていました。そこでその平安をつくっていくために新しい宗教勢力として、最澄、空海が登場してきます。今までは、都市型の仏教だったのが、比叡山という山の中に、あるいは高山寺や高野山という山の中で国を護る密教の力が非常に重要で大きなものとなりました。つまり、山岳を拠点とした護国の仏教です。密教は曼荼羅の思想を持っているので、山の神、土地の神と習合していきます。高野山の丹生都比売(にふつひめ)、比叡山の大山咋(おほやまくい)と提携し、御祈祷によって土地の神の力を得、神仏習合しながら、国を護っていくという山岳護国仏教の体制ができました。そういう中で、天台宗の中に修験道と絡まりながら、「一仏成道観見法界草木国土悉皆成仏」を命題とする天台本学思想ができてきました。こういう思想の形成と、いわゆる日本的な王朝文化や王侯文化の隆盛は連動していいます。
遷都先として京都が選ばれた理由は、四神相応の地であったからです。青龍の地である東に鴨川が流れ、朱雀の地の南には神泉苑や巨椋池があり、白虎の地の西に山陰道が延び、玄武の地の北には鞍馬山や花背などの奥深い山並みがある。このような四神相応の思想が、密教の、あらゆるものを包摂する胎蔵曼荼羅と、リニア―に段階を踏んで成仏していくという金剛界系の曼荼羅の両界曼荼羅と結びつき、さらにはその中に日本の神々が取り込まれて、密教的な神仏習合思想が完成していきました。
が、その神仏習合的で護国仏教的な平安体制が陰りを見せるのが院政期で、11世紀の半ばに保元の乱と平治の乱が起こります。1156年と59年でした。この保元の乱の後は皆、乱世となったというのが慈円の『愚管抄』の道理哲学、歴史哲学のものの見方です。「鎌倉殿の13人」で慈円が出てきました。その後、治承・寿永の乱が起こります。これがいわゆる1185年の源平の合戦です。大河ドラマ「鎌倉殿13人」の最後は1221年に起こった承久の乱を描きましたが、承久の乱は下剋上のはしりの大異変でした。それは、北条執権という臣下が3人の上皇を遠島流罪にするという前代未聞のことが起こったわけですから。北条義時、泰時という執権2代、3代の時代にそれが起こります。この頃に鴨長明の『方丈記』が書かれ、ここに地震が多発する乱世の自然災害に関する非常に詳細なジャーナリスティックな記述が生れました。そういう大混乱状況の中で平家物語がまとめられていきます。平家物語は怨霊封じの物語です。その背景には、滅亡した平氏の怨霊が龍になって世の中を乱すという不安と恐れがあります。だからこそ、平氏の祟りを鎮めるために平家物語が物語られ、また、『選択本願念仏集』を始めとして、いわゆる鎌倉新仏教といわれる新しい仏教信仰が、法然、栄西、親鸞、道元、日蓮、一遍らによって起こってきました。
こういう中世的な多重権力というか、二重権力や、分散して社会がアノミーともあり、アナーキーな状態ともなっていく状況と現代の状況が非常にパラレルに重なるのではないかというのが私のスパイラル史観の考え方です。この時代に、死が前景化してきます。戦争や自然災害で多数の死者が出る。そうした時、死が前景化すると、必ず人間は歴史を振り返ります。昔はこうだったのになあとか、何でこうなっちゃったのかなあとか、歴史意識が反省的に深く強くなります。それが慈円の『愚管抄』となる。けれども人間の心や感情は死を前にして、歴史認識をして、知的に理解したかっただけでは収まらずに、それを表現しない収まらないわけです。演劇であるとか、ご祈祷であるとか、何らかの儀礼が必要なわけです。それが『平家物語』という鎮魂の芸能となります。
と同時に、そうした大混乱の中で何が本当に正しいのか、何が本当に真理なのか、根源なのかというような、正しきもの、真なるもの、根源なるものが追究されていきます。こういう中で、日蓮の『立正安国論』は出てきた。日蓮には、『法華経』に基づく予言の思想や大乗経典の三災七難思想があり、その七つの災難のうち、2つがまだ起こっていないと考えた。他国侵逼難と自界叛逆難の2つです。そしれこれが蒙古襲来や北条執権政治に反逆する三浦氏の乱であると理解していくので、そういう解釈によって『法華経』の思想がドラマチックにリアライズし現前化してくるわけです。これをまとめると、中世という乱世は武者の世であり、そこに地震、津波、洪水、干ばつ、疫病の連鎖が起こり、戦争が頻発して死者が多数出る。そこで誰もが、末法の世になった、乱世となった、地獄の世となった、無常の世になったと考え、そういう苦難の世界の盛者必衰を詠う平家物語が生まれてきた。
つまり、死、史、詩という連鎖は、今ここでこのような苦難の中にある我々がどのようにして救われるのかという受け止めであり、反省であり、表現です。そこから、南無阿弥陀仏の念仏や名号で救われるとか、南無妙法蓮華経と唱える題目によってのみ、国土も国民も世界も救われていくというような思想が生まれてきて、訴求力を持った。大規模な社会的な危機と変動の中で新しい宗教意識や宗教的方策が展開したわけです。
この時代、目に見えるものと見えないもの、リアリスティックなものとミスティックなものの両極が緊張感をもって展開します。軍事力や武力や目に見える物の力です。もう一つ、霊力、呪力のような目に見えない力もある。一方では、写実主義の慶派が生まれ、もう一方では、「秘すれば花」の能楽や、吉田神道の隠幽教や唯一宗源神道などが生まれます、吉田神道などは、応仁の乱の後に、神仏や道教を習合して、非常に奇抜な神々のマンションを建てる。日本全国の神々がここにおわす、外宮も内宮もおわす、仏教も道教も全部ひっくるめて納まっていると主張した。これが「大元宮」です。
このようにして、変転極まりない無常を見つめていくと、その道理が一体どうなっているのかという歴史観が構築され、またその無常のさまが平家物語などで詠われ、諸種の芸能、とりわけ能によって表現された。そして、その無常の時代を突き越えていく真理は何なのかも探究されて、神道サイドからは吉田兼倶が「大元宮」の建立という一つの答えを出したわけです。そして、その吉田神道が神道家元になって江戸時代に1つの安定機構を生むのですが、幕藩体制が終わった後、近代、西洋文明が一挙に入ってきて、吉田神道も消滅していきます。そうした近代の激変の中で、次に、古事記や日本書紀以前からある古層の神、隠れていた神が表に出てきて世の中を立て替えるという思想が出てきます。これは、出口なほによって書かれた艮の金神。「うしとらのこんじん、のこらずのこんじん、りうもんのをとひめさま、いわのかみさま、あめのかみさま、かぜのかみさま、あれのかみさま」というお筆先ですが、その最後は「じしんのかみさま」と書かれています。まさにアニミスティックな神様が大地から溢れ出てくるようにして涌き起こってくる。こういう地涌の菩薩のような神々の噴出ということを説いて、それが「三千世界一度に開く梅の花」という世直し運動につながっていきます。それをさらに大きく発展させたのが出口王仁三郎です。出口王仁三郎は政治的には挫折したけれども、政治的、宗教的な意味でも教団が二度の弾圧を受けで挫折したともいえますが、しかし彼の芸術活動は今でも非常に高く評価されております。その芸術活動は昭和2年(1927)に結成した「明光社」の運動となって推進されます。出口王仁三郎は大本は、キリスト教も仏教も、その他各国の宗教信者も集まってきて、互いにその霊性を磨き、時代に順応したる教義を研究するところと主張しました。つまり、宗教を越えた宗教、超宗教的な機関であると。今でいうスピリチュアリティの方向性を展開していたといえます。そしてそれを具体的に、「芸術は宗教の母である」という芸術の運動として展開していきます。「惟神の大道により素戔嗚尊の神意を奉戴し国風を奨励し文芸の都を開き平和の伝道を築き万民和楽の天国を地上に建設するを以って目的とす」と、その理念を表出します。
本年4月29日から川崎市岡本太郎美術館を皮切りに、全国5ヶ所の公立美術館で「顕神の夢」と題する巡回展が開催されますが、この展覧会に、私が所蔵している出口なおのお筆先や、出口王仁三郎作の「瑞雲」と題された耀盌や「巌上観音像」などを出品し、「見神者たち」のコーナーに展示されます。他のコーナーは、「幻視の表現者」「内的光を求めて」「神・仏・魔を描く」「越境者たち」で、全部で5つのゾーン構成となります。
出口王仁三郎は、芸術と宗教の関係は「芸術が宗教の母である」けれども、また同時に。「兄弟姉妹、親子、夫婦のごときで両方共に霊性最奥部の要求を充たしながら人を神のもとに立ち還らしむる」と主張しました。つまり、芸術も宗教も親子兄弟夫婦のような密接不離の関係のダイナミックな関係にあるのだと説いて、芸術的霊性運動を展開したわけです。これが近代の物質文明の「体主霊従」の世の中「霊主体従」の運動の真髄です。
さて、最後の、現代の京都の危機がどうなっているかという問題をお話しします。2‐3年ほど前に、京都市は第2の夕張になるのではと報道されましたが、財政危機はかなり深刻です。が、同時に、自然の危機も非常に深刻な事態になっています。つまり京都三山が非常に荒廃してきているからです。そこで、私たち京都伝統文化の森推進協議会でクラウドファンディングを500万円を目標額に立ち上げました。この伝統文化の森推進協議会は京都三山を多様で美しい経験を持った山並みに守っていく官民産学の市民主導の運動体です。特に東山の一角に国有林があるので、その国有林の一部を林野庁の許可を得ながら、そこからまず手始めにやっていこうこの15年、林相改善を進めてきました。そして、東山を皮切りに、北山、西山全体を共生の森に維持していこうと計画しています。この京都三山が安定し整わないと、京都の生活基盤は安定しません。ですから、京都の都市生活空間を保持していくためにも、京都三山の安定的な維持整備は必須なのです。目標額の500万円を超える570万円の支援をえて、クラウドファンディングは成立しました。しかし実態は5億円あっても解決しません。何十億あっても根本的には山の保全は難しいところがあります。根本的解決が一体どういうものが解決なのかということが分からないぐらいに色々な問題をこの今の状況は構造的に含んでいるからです。
これは2018年に台風21号が起こった翌日に比叡山に登った時に私自身が撮影した写真です。根返り倒木が山道を塞いでいて歩けません。京都トレイルの観光客が行っていた道も同様でした。同時期の鞍馬山周辺も散々な寝返り倒木で禿山となっている状態で深刻です。寝返り倒木した木は、植林で、主に杉と檜の林です。非常に脆弱です。そこからいつ山崩れになるか分かりません。こういう状況の中で、私たちは2020年3月に『京都の森と文化』という本をナカニシヤ出版から出しました。2007年12月に初代会長である山折哲雄さんたちが立ち上げて、この10年間、どういう活動をやってきたかということを構成メンバー総動員でまとめました。その本を出版して、さあこれからトークイベントなど色々なイベントをやって市民や観光者に訴えようとした矢先に、コロナの緊急事態宣言が出て、活動が中止となりました。以降、コロナ・パンデミック下で、活動が停滞してしまいました。
「クーリン」とか「京ダラボッチ」とかと名付けたカワイイゆるキャラも作って、さて打って出ようとした矢先のことでした。私たちは、森林整備・景観対策専門委員会と文化的価値発信専門委員会という2つの専門部会を作って、地道な活動をずっとやってきたんですけれども、こういう状況下、その先へ進んでいけませんでした。でも、今後ここから先へ進むためには、もう1回、平安京とはどういう構造を持っていて、どうして1000年以上も続く都となったのかを再認識しなければなりません。ここには、まず豊富できれない水がありました。そこに、祈りの文化が栄えました。上賀茂神社や下賀茂神社などなどの寺社群。そこに芸術、技芸、物作りが起こり、地方とのつながりも密接な交易交流がありました。都と雛との関係も、緊張や危機は何度も起こっていますが、その中でもうまく循環できる構図や構造を作り上げていなかったら、千年の都としては立ちいかないでしょう。そこで平安京の長寿の秘密を私たちは「生態智」と捉え、特に東山の方は比叡山から一番南の稲荷山、間に京都大学の吉田山があって、この東山山系に仏教の各本山がずらっと並んでいます。各宗派の本山級の有名寺院の百貨店のような状況です。
では、その東山三十六峰最北端の比叡山は、古事記に描かれているかというと、「大山咋神(おほやまくひのかみ)、またの名は山末之大主神(やますえのおほぬしのかみ)」として特筆されています。さらには、「近江国の日枝の山に鎮座し、鳴鏑を用つ神」と表記されているのです。この「大山咋神=山末之大主神」が天台宗延暦寺(一乗止観院)の本尊の薬師如来と習合することによって、比叡山が京都を守護してくれるのだと、都人に安心を与えた訳です。そういう神仏習合の護国の安心装置の中で千日回峰行が始まり、回峰行者は御所の中まで行ってご祈祷をするという修法が生まれました。
こういう神仏習合の宗教文化の中に、東山三十六峰の第二峰の御蔭山(御生山)の麓に下賀茂神社の奥宮の御蔭神社があります。また、三十六峰の一番南が第三十六峰の稲荷山です。その稲荷社にも神様は三社の神様が祀られています。こうした平安京の神々の中でもとりわけ重要な古くからの神社として上賀茂神社、正式には賀茂別雷神社と、下賀茂神社すなわち賀茂御祖神社があるわけです。そして、ここで行われる葵祭などでは、葵の神饌も神々にお供えされます。
この神饌に日本文化の繊細さと美意識の原形と精髄があります。調度品や器、食器などの陶芸品も含めて、本当に技術と祈りの想いを全部凝らして高品質の物を作り上げています。こういう伝承文化の中に「生態智」があると思っています。
今、コロナ下で、私たちの社会はソーシャル・ディスタンスを一定程度保たなければいけないと言われていますが、根本的にはエコロジカル・ディスタンスに支えられているわけです。つまり、京都三山やそこから流れ落ちる川や水などの自然を基盤としている。そしてそうしたエコロジカル・ディスタンスやソーシャル・ディスタンスの上にあるいは内奥にスピリチュアル・ディスタンスが成り立ちます。そのスピリチュアル・ディスタンスは時空を越える自在なものですが、まさに芸術というのは、メンタル・ディスタンスとスピリチュアル・ディスタンスに深く関わってきて、そして宗教とも関わり、人間世界に起こるわざわいを、さちわいにシフトし切り替えていく力を持っています。
ところが、日本はご存じのように4つのプレートが重なっている国で、火山も111もありますから、絶対に災害が来るのは間違いないのです。日本最古の個展の古事記には、その日本の古称を、「くらげなす漂へる島」とはっきりと書いてあります。つまり、くらげのようにぷかぷか、ふわふわ浮いている島、それが日本列島だということです。これが、別の角度から見ると、「豊葦原瑞穂国」となる。豊かな穀物も実る多様な大八島の国となるのですが、その本質・基盤はくらげの国であり、くらげの島なのです。だから頻発する地震に弱く、色々な水没や水害が起こるわけです。2011年9月に起こった天河大辨財天社の水没状況も、山崩れも今後も頻繁に起こってきます。
ですから私たちはこのエコロジカル・ディスタンスをベースにして生きていく以外には道はありません。その生態智に基づく京都三山の在り様をもう1回考え直し、再構築していこうというのが、私たちがやっている京都伝統文化の森推進協議会の活動の哲学であり、実践です。同時にそこで連動して、京都の中で起こってきた宗教的価値、祈り、芸能、能を含めて、もう一度それを見直したいということです。そして、京都の大学文化を代表委する同志社大学も立命館大学もものすごく教育プログラムに集約した投資を行なってきた。その先見の明があった。新島襄を始め、色々な人たちが苦心して、京都を大学の町、学問の町、芸術を学ぶ町にしてきました。そういう平安京文化をもう1回再認識し、再構築して蘇らせて、トータルに京都を保持していくということが、今後の日本の文化を展開保持のためにも絶対に必要な実践であるということを皆さんに訴えて私の発題にさせていただきます。まことにありがとうございました。
(小原)鎌田先生ありがとうございました。それでは、次のご発表をいただきたいと思います。水谷先生にも20分間でよろしくお願い致します。
(3)水谷周「宗教における易と不易―カアバ殿とその意味合い」
(水谷) 今日のこのセッションのテーマは「危機の時代における文化の継承」ということでございますので、私の方は危機の時代というよりはその文化の継承、言い換えれば伝統という方面に話を移したいと思います。珍しい話をご紹介したいと思いますし、それを多少深堀するという形で話を進められればと思います。まず、タイトルにありましたカアバ殿そのものです。それは当然馴染み深い方はおられないと思うのですが、随時そのお話を致します。巡礼の一つの中心地であるメッカにある黒い建造物、カアバと言われているものです。礼拝堂であるわけですけれども、その歴史の深さというか悠久の歴史があるというふうに信じられているものだということを最初に触れたいと思います。その出典は『コーラン』。『コーラン』は、アッラーの言葉であると信じられるわけですけれども、人類のために最初に建立された家、ということは建造物です。最初の建造物はバッカで、全世界に対する祝福であり、導きです。バッカというのは今で言いますと、マッカ、もっと普通に言われているのは、メッカでありますけれども、それの古風な発音がバッカになりました。要するに、人類全世界初めての建造物であったということがここで示されています。また、アッラーは人間のために禁忌のある家、カアバを創り、要するにカアバ殿というのはそこで行ってはいけないというタブーのある建造物ということも『コーラン』に出てまいります。したがって、天地創造以来の歴史があると、まず抑えておきたいと思うわけです。それがイスラーム信仰に出てくるわけです。世界初の家であると。またしたがってそれは礼拝の方向になっています。世界どこでお祈りをあげてもメッカの方へ向かいます。メッカの中にいる人はこのカアバ殿に向かってお祈りするわけです。またカアバ殿の中にいる人はどこを向くか。これはまた次の話でどんどん深堀ができるのですが、とにかくあれが世界の礼拝の中心であるということです。このカアバ殿というのは先ほどのように色々危機がありました。幾度となく、洪水、火事、戦闘などで崩壊され、直ちに修復され、再建されてきました。現存のものは1630年オスマン朝の時代に建造されたのが現在に至っています。ご承知のとおりアラビア半島は、大変な砂漠の土地なわけです。そこで洪水でどうして流されるかというのは、少し驚きですが、雨が、突然として鉄砲水が降る。そういう環境です。ですから、ああいう町というのは、あるいは村落やあの土地の文明というのは皆峡谷の中に、谷の中につくられてきています。したがって、峡谷というのはまた逆にいえば、水を集めるということで幾度となく洪水に流されてきました。これは写真でお示しすれば早いかと思ったのですが、まず右上の地図を見ていただきまして、場所、地理的な関係です。紅海、アラビア半島の西側にある紅海の真ん中あたりにジェッダという今も栄えている貿易港があります。そのジェッダから車で約1時間東に行ったところにメッカという、四角に囲った町が書いてありますが、そこにこのカアバ殿があるわけです。ぐるりと点々で破線で覆った地域は、これはいわゆる巡礼の地域と言われていまして、この破線の中に入る時には巡礼用の衣服に着替えなければいけないと言われている土地でございます。写真の真ん中、上に洪水に浸っているカアバ殿が出ております。子供、男の子が泳いでいますけれども、こんな調子です。これはまだカアバ殿は崩れておりませんけれども、1番左側は、石、ブロックでできています。これは全くの想像図ですけれども、預言者イブラヒーム、アブラハムです。預言者アブラハムが再建した時の建造であろうかと、誰が想像したかも分からないような、図柄が結構広まって、皆こんなものだったのかというふうに勝手に考えています。ほとんど根拠がありません。ただ、唯一の根拠は遺跡を掘り返してみると、昔ながらの柱というか、四隅の補強すべきところには石が残っておりますので、その大きさだけはかなり昔のまま守られています。左下の大きな写真がカアバ殿の全体像ですね。この写真自身はほぼ100年前に撮られた写真です。100年前というのは、その後このカアバ殿、巡礼者これだけの人数です。今はもう300万、400万人集まりますから、とても入りきれないということになっています。そうするとこの周りの回廊がいっぱいだと3階建てとなりまして、どんどん上で巡礼もできるということです。要するに施設が拡大されて、これは拡大される前の写真ですので、そういう意味で非常に記念的であると同時に100年前ということもほぼそれで確定できるわけです。右下の岩山、これはヌール山、光の山と言われているところで、メッカの街から約1キロ程度のところですけれども、この山のはげ山のてっぺん、本当に木がない岩山のてっぺんに洞窟があり、その洞窟の中で預言者ムハンマドが610年頃、啓示を受け始めたという非常に有名なところなわけですけれども、決してこういうところを名所にしてはいけない、というのがイスラームの教えです。どういう謂れがあろうが、そこがもちろん非常な歴史的な場所であることは事実の問題としてありますが、そこを崇めるとか特別視するとかいうようなことは正面切って禁止されております。預言者が住んでいたという家。そこも分かっております。家、建造物そのものはないのですが、その上には今建てられているのはメッカ市立の図書館があります。入口の看板にここを決して特別な場所として見てはいけないとわざわざ断りが書かれるくらいに、そういうものは聖視しません。聖なるものとして見てはいけません。聖なるものは存在しない、というのがイスラームの基本的な発想ですので、したがってこの山は、こういうことですけれども、決して観光地化はされていません。
これはカアバ殿を構成する様々な部品と呼ばれております。アラビア語でアジュザーと言いますけれども、その部品の中でも最も有名かと思いますのは、この1番に示されている、あるいは、右上の写真に出ております黒い石です。大体黒石なのですが、これが1番最初に建てられた時のカアバ殿で使われた石で残っている唯一のものだと伝えられているわけです。ですから、天地創造の時天使が天国から石を運んできてこれを建造したというわけですから、その当時の石は真っ白であったそうです。真っ白な石で創られた建造物。ところが、現状は御覧のように真っ黒になっています。それは皆が手で触れる、人間の手は汚れています。単に物理的に汚れているだけではなくて、人間の心の汚れがこの石を黒くしてしまったということで、黒くなったと言われています。その黒石に皆あまりに関心が深い。盗んで持っていく人もいました。今、それが盗られないように、銀のカバーで周りが覆われて、中の石はもっと大きいのですが、その一部だけが顔を出すような格好になっています。また人の手が触れるたびに汚れていくわけですので、表面は松脂が塗ってあり、この写真では黒く写っていますが、実際は紅というかえんじ色をしています。その松脂の色です。写真では黒くなっています。右下の金色のものはここでいうと番号は3番です。金色のトユ、雨はそんなに降らないのですが、申し上げたように降る時は土砂降りになってしまうものですから、トユが非常に立派なものがあります。色々なこういう部品は各王朝の支配者、自分が支配者になった宣伝をするといいますか、なったその記念に皆それぞれその時点で壊れている部品を新しいのを作って寄贈するというようなことが伝統的に行われてきました。ですからこの金色のものもオスマン朝のとあるカリフが寄付をして作られたということです。これも部品の続きです。これは入口に皆たむろして、なんとかこの入口に入れないかと、入れないのですが、こういうようなことをします。その上には大変に立派な金糸でできた絨毯がカバー、カーテンのようにかかっています。真ん中のものは御覧のように扉なわけです。右下、二つ穴が開いています。あれは申し上げた預言者イブラーヒームがこのカアバ殿を再建した時にそこに立って石を積み上げたということです。ところがその足跡が残っていたのです。ですから、5本指の形があったのですが、皆があまりにそこから恵みを得たいというので、触りすぎてまん丸になり、もう足の形も分からない格好になっているのですが、このまま放っておくとどんどん壊れてしまうというので、今はそれも触れないように、それのすぐ上にある写真のように保護するような網の中に入れられて保存されています。その前で皆祈祷をあげるということでございます。左1番下はこの扉を開ける鍵です。この鍵も第何代カリフの時に寄贈された鍵であるとか、それぞれの歴史が込められたものがございまして、このカアバ殿の博物館にこういうがものずらっと並んでいるということです。それぞれにその由来というか歴史が語られる、そういうものです。これはそのうちの1つということです。これも非常に凝った鍵を寄贈してきたということがございます。
次にこれは少し視点を変えまして巡礼ということです。カアバ殿は申し上げたように1つの巡礼の中心地です。もう1つの中心地は、アラファという名前の丘がございます。それは上の地図でいきますと左端がメッカ、マッカでありますけれども、そこから約25キロ東へ行ったところにラフマ山という右上の写真にある山、というよりは丘です。岩の丘がありまして、そこの地域全体をアラファの丘と呼んでおりますが、その中心にラフマ山、ラフマというのは慈悲という意味合いでございます。そこが中心になっている。そのラフマ山に巡礼月の9日の日に、メッカから移動します。まずメッカに着いたらさっきのカアバ殿の周りをぐるぐる回るような行事があります。それを終えまして、9日の日の午後にラフマ山の周り、アラファの丘に集まりまして、ああやって皆9日の午後半日間通して祈りを上げます。真ん中の写真はその祈りをあげているところですけれども、このラフマ山、あるいはアラファでの半日間のずっと立ったり、座ったりでもいいのですが、祈り以外何もしないというこの行事、名前はウクーフと言いますけれども、そこにとどまってずっと祈りを上げるという行事、これが巡礼中最大の行事だとみなされております。ですから、この行事に参加しない人はその年の巡礼は無効、要するに認定されないということですので、皆必死になって移動しているところです。その日の午後に、要するに正午には着いていないと参加できないというので、巡礼は巡礼月の7日から13日、ほぼ1週間にわたって行われます。その中には、先ほどのカアバ殿の周りを回る、あるいはアラファの山へ行って半日間のお祈りを上げる、などの行事がございます。その各行事に何日の何時に何をしなきゃいけないのかという法律みたいなものがございまして、それに遅れたりすると、申し上げているようにこういう重要な行事をミスすると、それはもう無効になってしまうというので皆必死になるわけです。このアラファのウクーフ、留礼。ずっとお祈りばかり続けていますという9日の夜には山からまた皆一斉に降りましてその下にあるムズダリファとこの地図の真ん中、上の方に書いてありますムズダリファの丘に降りていきます。そこへ降りて行ってまたそこで野営をする行事というか野営をしなければいけないということになっています。寒い季節太陰暦ですので、何月にそれが相当するかは毎年変わっていくわけです。今年は6月の末から巡礼月に入りますので、ですから7月の頭に巡礼をするということになります。そうすると今度は逆にめちゃくちゃ熱い夜です。私は2回行きましたけれども、1回目は12月に行きましたけれど、12月はもうぶるぶる震えるその中で野営をするわけです。これは非常にイスラームにはあまり厳しいものはないというと怒られますが、厳しい修行は強いられることはありませんが、この巡礼月のタイミングによっては申し上げたように厳しくなる。それでこの野営が終わった後はまた色々な行事の一つに髪をそるというものがございます。この右下です。皆髪をそっています。私もつるつるにそられましたけれども、その意味は、人の髪を犠牲として神に捧げるということです。その背景はさらにいえば、預言者イブラーヒームは自分の息子を殺せと、それで犠牲にしなさいと言われて、それで分かりましたとアッラーの命令に従うことにしたわけです。その瞬間に赦されてそれはもうやらなくていいと、その代わり、羊を屠殺しなさいという命令が下りたそうです。それが人類にとって大変苦難の瞬間であったと捉えられるわけですが、したがってその時期を捉えて犠牲祭というイスラーム最大のお祭りも行われます。今、写真のように、羊も屠殺します。ラクダも食べるために屠殺しますけれども、人間としては髪の毛をそって神に捧げるというそういう意味合いが込められた行事が巡礼月の10日です。その他色々な行事が組み合わされて展開されるというのが巡礼でございます。したがってカアバ殿の話をしているのですが、巡礼の中においてそのカアバ殿が占めている位置ということも多少この念頭に置いていただきたいということでお話ししました。以上写真を使っての説明ですが、ここは1つずつ読み上げることはできませんが、多数の歴史書を通じて、作家であるとか、歴史家などがカアバ殿に初めて訪れた、初めて目にした時の感動が非常に様々な形で記録され、伝えられてきているということをここで少しお示ししました。有名なイブン・バットゥ―タという世界旅行記で有名な14世紀の旅行者ですね、彼も世界旅行記とはいっても、最初から目的は巡礼なのです。巡礼のために今なら飛行機でぽいと行っちゃいますが、当時はラクダあるいは徒歩であちらへ行ったり、こちらへ行ったり、それが世界旅行記として記されています。2番目は20世紀のエジプト人作家、フサイン・ハイカルという人です。これも日本では有名でないかもしれませんが、エジプト近代史では超有名な人で、エジプト最初の小説家であると同時に歴史家であり、それまでは日本で言うと鹿鳴館時代みたいにその欧米文化一辺倒だった世の中の主張を20世紀初めに彼が記した巡礼記によりまして、一辺にエジプト国内の世相を、イスラーム傾斜に切り替えさせたという大変な巡礼記があります。その中でも、このカアバ殿を初めて見た時の感激が触れられています。最後は明治時代の日本人として初めての巡礼者である山岡光太郎という方がおられます。1908年に彼は訪れて、ここに全部書いてございますけれども、彼自身は熱病にかかってしまい、残念ながらすべての行程を終えられなかったけれども、カアバ殿だけはどうしても目にしないといけないというので、拝みに行ったというか、見に行きました。その時の感激が彼の巡礼記にも触れられています、ということをご紹介したいと思います。さらにはカアバ殿というのはどのように受け止められているか、様々な逸話がこれまで山のようにございます。例えば、カアバ殿の上を飛ぶ鳥の病気が治るとされています。普通は、バタンと倒れて、落ちそうな鳥も、なぜこの病気が治るかと、あまりその医学的、あるいは科学的には証明されているかどうか分かりませんが、人間があれほどいると確かにものすごい熱気なんですね。私も冬であるにもかかわらず、しかもシーツ1枚だけの巡礼着を着てですね、汗だくになるわけです。前後ぎゅうぎゅう押し、こっちも押すんですけれども、逆に後ろから押されるので、大変な熱気です。その熱気がカアバ殿の上にどんどん登っていきます。それをその鳥がその熱気で病気、どういう病気かは分かりませんが、かなり治されるのではないかと考えられています。あるいはカアバ殿の雨は豊作を示します。建造物ですから、四隅あるわけです。右の上の方はイラクの方向にあたります。上の右側がイラク。上の左はシリアの方向にあたるわけです。左の下の方はイエメン。それから、右の下の方はオマーンの方向にあたるわけですが、どの方向で雨が降るかによってどの地域が豊作であるかが分かる、というようなことも言われております。あるいは先ほど写真に見ました扉を開ける鍵がありましたね。巨大な鍵。あれを子供の口に入れてやるとなかなか話始めない子供がちゃんと治って、話ができるようになるというようなことも言われたりしております。科学的にどういう根拠があるか分かりませんが、いずれにしましてもここで示したかったのはこういう様々な逸話というのはやはりカアバ殿に寄せる思いの強さを表わしているということをお伝えしたかったわけです。最後のこの決め手になるような言葉、「心の中のカアバ殿」という表現をする人もいます。これはつまり、カアバ殿というのはマッカの街中にあるああいう大きな黒い、黒いというのは布が被されているわけですけれども、ああいう建造物なのですけれども、結局ムスリム、イスラーム教徒にとっては心の中にカアバ殿があるのだというそういう捉え方です。宗教上、不易な存在は信仰の堅固さであり、それが眼前に現存することに重い意味合いがあるのではないかと。それによって人の移ろいやすさを教えられ、そのまま崇敬の対象となると。ですから事実は現状再建されっぱなしですから、同じであるはずはないのですけれども、そこに同じものがあると信ずる、そう考える、そういうことによって逆にこちらがいかにふらふらふらふらしている人間であるか、ということを教えられる。そういう意味の物証になるのではないかと思うわけです。集まる人の群れの中での圧倒的な平等感と超越者としての主の実感。これも間違いなくあります。申し上げたように約400万人が集まります。境内の中のみならずそのカアバ殿のある礼拝所です。その周りでもたくさん同時に礼拝をあげます。ですから街全体で礼拝をあげているようなものですけども、合わせて約400万人。これは当然同時に上げる祈りとしては世界最大であろうかと思います。明治神宮は正月の3日間で300万人強、と言われておりますけども、通しで3日間です。この400万というのは同じ日同じ場所で400万人。イスラーム以外の宗教にも不動の存在に同種の意味合いが見出せる例があるはずです。それは同種の感動ではないでしょうか。また、不動の存在というのは、事柄を単純化する効果も大きい、と実感します。要するにどーんと同じものが何千年、天地創造以来ここにあるのだということは、非常に物事は単純です。そういう黒いものが昔からある。アラファの丘には慈悲の山というものがあってその間を往復する行事が巡礼だと。ちなみにアダムとイブもこの巡礼に参加したと信じられていますが、そのようにもう決まったことがそこにどーんとして存在するということは、様々に地位転変の多い人間の世界と比べて、いかにそういう本質的、真髄を示すものが変わらないのかということを教えられます。目に見えて教えられます。そこで、京都に関しましても思いを馳せましたのは、例えば不易の一服、お茶をいただきます。お茶も当然毎年香りとか味わいは異なっているはずですけれども、しかしそれをいただく人間の方がはるかに移ろいやすい。ですからその中で一服いただくお茶、このお茶の味というのは、やはり不易、変わらないのものとして、他方いただく茶人の方は、茶人というのは私も含めてですけれども、いただく方はふらふらふらふらしている。そういう関係があるのだろうと思います。茶室の建造の仕方においても、同様のことがあろうかと思います。例えば、入口、躙り口で頭を下げて、謙虚な心を調えて入る、これは茶室の本質の部分かと思うのですが、建て方自体は、もっと近代的な建築でもあり得るのかもしれません。私は分かりませんけれども。しかしこれは変えないというものをやはりはっきり定めて、そこは大事にしつつ、そうでない部分は大いに時代に合ったものに変化させて適応させて新たなものを創造していく。そういう適応性、その創造がないと、簡単に言うと面白くないです。同じことばかりの繰り返しになるわけですから。ですからこれを変えない、これを新しくしようというそういう識別というか、そこでやはり判断し、色々な物事について皆基準は違うでしょうけれども、この易と不易のせめぎ合いは人の本質として、洋の東西を問わないものとしてあるのではないかなと思うわけです。したがって当初申し上げました危機の時代における文化の継承といった時も、価値の継承は大事ですが、しかし本筋、本質的な価値が何かということを大いに議論し、考えたうえできっちり標的は決めて、そこは守りつつそうでない部分は大いにできるだけ最大人数の関心をあおる。関心を持ってもらえるようなものに作りかえていく。そこに創造の意味があるのではないかと思うわけです。これも最後でございまして、右の方は、これはカアバ殿の周りを3階に登ってぐるぐる回っていった時の私の像です。写真です。ですから、証拠写真というか物証です。それで、左の方はアラファの丘で半日の祈りの行事に参加した時の画面であります。周りに御覧のように大変な日照りの下で行われますので、下手すると身が、今の熱中症どころではありません。もう倒れてしまう人が続出ですので、救急車もいっぱい走っています。またひどい場合には病院で、途中で巡礼を断念するという人もいますけれども、テントの中で休むことも許されているというような次第です。以上で、時間的に分かりませんがよろしいでしょうか。どうも、ご清聴ありがとうございました。
(小原)水谷先生ありがとうございました。では、最後となりますけれども、弓山先生どうぞよろしくお願い致します。
(4)弓山達也「危機における宗教信仰、あるいは無自覚の宗教性の表出」
(弓山) 今、ご紹介にあずかりました弓山です。他の先生方が、千年単位、それから地球的な規模でお話されたのに対し、私は百年くらいのスパンで主に東日本のお話をさせていただきます。今回主催団体の宗教信仰復興という名前を初めて御覧になられた方はどのように思われたでしょうか。我が国におきましては人口の約1割が、信仰者。関心層も含めて3割くらいが宗教に興味を持っております。そういう中で、信仰復興という言葉に疑問とか疑念とか、もしかすると穏やかでない何かを感じられる方もいらっしゃるかもしれません。
私の報告の目的は、危機の時代、非常時だからこそ表出される宗教信仰とは一体どのようなものであろうか。また、今までの先生方が、プロの宗教家といいますか、教団所属の宗教者によって育まれる信仰心を対象にされておられましたけれども、私はそうではなくて、市井の人々、いわば普通の人々によって担われる素朴な宗教心や霊性(スピリチュアリティ)と呼ばれるようなものの発露についてみていきたいというふうに考えております。これは大阪大学に稲場圭信先生が「無自覚の宗教性」と言っていることと大きく重なってまいりまして、このことについては後ほどお話をさせていただこうと思います。
まず、今回、宗教信仰復興叢書の記念のシンポジウムとしてこの回が開催されております。私その中で非宗教者の信仰復興ということをテーマに掲げさせていただきました。福島県を中心に、百年前のスペイン風邪とそれから東日本大震災における危機の時代の信仰復興について、書かせていただきました。スペイン風邪ですけれども、コロナと少し違っていまして、前流行、後流行というのがありまして、福島県においては、1918年の10月から数か月間、それから1920年の初頭において大きく流行いたしました。若松、郡山、福島、平(現いわき市の行政中心部)、三春、川俣において、1万人から3万人くらいの方が1か月間に感染したということが新聞に載っていました。特に摩耶郡吾妻村(現猪苗代町)の集落では、276人の住民のうち、270名が亡くなられるというような大惨事になりまして、天皇陛下に奏上された結果、陛下がすぐに日本中の地域を調べなさいということを命じられたということが新聞にも掲載されています。
この摩耶郡吾妻村の南の翁島村に野口英世の実家があります。そこでスペイン風邪の時にお母さんの鹿子様が亡くなられています。当時、野口英世はニューヨークに滞在していて研究生活に没頭していました。すぐに恩師の小林栄先生が英世にお母さんが亡くなられて、お葬式の詳細、誰がきて、どのような設えだったかということを送られました。約2か月半後に、英世から返事が返ってまいります。そこに書かれていたことですけれども、このように書かれていました。「兼而より覚悟の上なれば」と、要するにかなり諦めの気持ちが吐露されており、その次に英世の独特な死生観が吐露されています。「生と死との境界は此世のことのみで生前と死後とを考ひれば現生は単二一時の足留め二過ぎ」ないということが書かれており、さらにその後には英世の死生観のかなり中核になるようなことが書かれています。つまり、「生死二境なしとは小子の確信二御座候」ということ、並びにお母さんが亡くなられた時に彼はバハマにいました。バハマでお母さんが亡くなられた瞬間にお母さんの臨在を感じてそこにお母さんが側にいるような気になったということも告白されていました。つまり、スペイン風邪のような世界的な危機の時に、さらに自分の母親の死に際して非常に素朴な生と死の境がない、それから生者と死者との間に境なしというような信念が吐露されております。
これ自身は実は珍しいことではなくて、当時のスペイン風邪に遭遇した文学者の多くがこのような諦めと、それから生死に境なしということを言っております。例えば与謝野晶子。家族がスペイン風邪にかかります。彼女非常に怒ります。ところが、諦めます。ところが諦めたうえで彼女は「生にして楽しくば死も楽しく、死して悲しくば生も悲しく、否寧ろ苦楽悲喜の交錯が絶対の存在其物」という形で、生と死との間柄について思いを凝らしております。武者小路実篤も、「愛と死」というような、多分自分をモデルにした小説の中で許嫁がスペイン風邪で亡くなってしまう。そして、亡くなった許嫁に対して「死んだものはあらゆることから解放された」「人生の生命は無常」というような諦めを口にしながらも、最終的には神になった、そう思うしか仕方がないのではないかと、21年後に自分の許嫁のことを思い起こさせています。ここでも諦めと、それから亡くなった人間と生きている人間との行き交う波濤がテーマになっていることが分かるかと思われます。
それから100年経って東日本大震災が起きました。私、じゃんがら念仏踊りという福島県の浜通りはいわきを中心に伝わる民俗芸能の調査をさせていただきました。きっかけは、いわき海星高校という海洋高校のじゃんがらサークルです。この高校では2人の生徒が亡くなられたり、行方不明になったりしています。1人は、仲良くしているおばあちゃんを高齢者施設に訪ねて行ってそこで津波に流されてしまって行方不明ということが起きました。この海洋高校は外国から多くの方がいらっしゃいます。その時に、地元の民俗芸能を披露します。つまり余興としてこのじゃんがらというものを海外の人に見せていました。ところが、生徒さんたちは「このじゃんがらというのは、亡くなった人のために打つんだ」と、―じゃんがらと鉦や太鼓を打つたびにじゃんがらを打つと言います―亡くなった友達のためにじゃんがらを打ちたいんだというふうに顧問の先生に言ったそうです。津波ですべての鉦や太鼓、それから衣装も流されて先生は奔走してこのように衣装と鉦と太鼓を揃えて級友の家の前で生徒さんたちがじゃんがらを打ったそうです。
数年後、私この高校の生徒に同行取材してインタビューさせていただきました。いわき駅前でじゃんがら大会が行われて、マイクロバスで向かいました。リーダーの高校生に道を行く他の高校生を指して「なんか楽しそうにしているよね、君たち勉強とか大丈夫なの、それから夏休みだけど遊びに行きたいと思わないの」と聞きました。そうしたらリーダーの男の子が私の顔を覗き込んで「先生、じゃんがらを友達のために打つということは格好いいことなんだ」と言いました。私聞いたことを恥じました。つまり、彼は東日本大震災が起きて、そして自分の先輩が亡くなり、そういう危機の時にはっきりと亡くなった先輩の姿をありありと感じることができた。ここでも行き交う波濤、亡くなった人と生きている人間との行き交う波濤を感じることができるのではないかと思います。
同じようにじゃんがらの事例をもう1つご紹介いたします。いわき市の北に久之浜という場所があります。そこでじゃんがらのリーダーをやっている建具店の遠藤さんです。彼は、青年会の活動の一環としてじゃんがらをやっていたそうです。ところが震災を機に、じゃんがらの意味が大きく変わったと彼は言います。彼は何と言っているのでょうか。「消防団で助けられたかもしれない、遺体をモノとして扱わなければならなかったことに罪悪感があった。手の感触が残っていた、残像があった。それを整理するためにじゃんがらがあった。供養のために自分たちは行った。報道では、その意味を判らず、イベントがあった、可哀想なことがあったというだけ。」「こういう時だからこそ、じゃんがらをやりたいという我々の思いがあった。商工会青年部の活動で子どもたちに伝える伝統芸能としてのじゃんがらから、震災を区切りに」。彼は供養というんですけれども、「供養のじゃんがらが二分されていった。あの世とこの世を、亡くなった人と現世の人とをつなぐ会話のできる環境をつくる、時間を戻すのがじゃんがら。歌詞や意味や鳴り物の意味が判ると祈り方が、空気感が変わってきている」。いわき市は映画「フラガール」でフラダンスが有名なんですが、「そこからおこなわれるようなよさこいやベリーダンスやフラダンスとは違うんだ」。ここでも、遠藤さんはそれまでお小遣い稼ぎのためにやっていたじゃんがらを亡くなっている人とそれから生きている人をつなぐためのものだと大きく意味転換をしています。
さて話は今日のことに移ります。震災後10年を期して、被災地には、多くのいわゆる震災伝承館といわれるような震災伝承施設が建設、今もされています。私、自分の研究室の院生とともにこの浜通りの震災伝承施設を回らせていただいております。大体大きな施設はすべて回り、そこでかなりの宗教文化に関する展示があるということに気づきました。
まず、多いのはは、お祭りです。例えば、これは相馬市の伝承鎮魂祈念館ですけれども、地域のお祭りということで獅子舞のパネル展示でありますとか、そこで子どもたちが練り歩いているような姿が、動画で再生されています。富岡町にありますアーカイブ・ミュージアムでは今のお祭りだけではなくて、過去のこのどのような祭り、祭祀が行われていたということや、また、そのジオラマにはお神輿を担ぐ現地の方々が再現されております。富岡町にはお花見で有名な夜ノ森というところがあります。その夜ノ森で行われている桜まつりのパネルとそこに招き猫と千羽鶴が非常に印象的な展示になっておりまして、これがこのミュージアムの1番最後の展示になっています。イベントも含めまして広い意味でのお祭りです。
お祭りだけではなくて、お墓とかご先祖様とか家とか地元ということも大きくクローズアップされて伝えられています。例えば浪江町に請戸小学校という、子どもたちが機転を利かせて、大平山という山に駆け上がって全員が無事だったという小学校があります。今は震災遺構になっていて、1階部分は大きく津波に洗われてぐちゃぐちゃになっています。ところが、その階段を上ると1番最初に目に入るのは安波祭という祭りの巨大なレリーフが廊下に掲げられているのが目に入ります。この地域は安波祭といって海にお神輿を担いで入っていくのです。その後に田植えの踊りを地元の神社でやるお祭りです。神社も流され、宮司さんも行方不明とうかがっています。さらにこの廊下から教室の中に入りますと、これ請戸小学校の学んできた子供たちが一時的にここに戻って、請戸には戻れないけれども、絆を感じている。いつか、請戸に戻るのだということを黒板いっぱいに書かれています。さらに住むことはできないけれども、先ほど言ったような子供たちが逃げ延びた大平山は地元のお墓が流れてしまいまして、そのお墓が移築された墓地になっています。その墓地にせめてお墓だけでも請戸に留めてもらいたいという現地の方々の語りを見ることができます。
お祭りが1番目、それからお墓とか先祖とかそれにまつわる地域や地元に対する思いというものも宗教的な語りとして我々は注目していす。それから宗教文化と言えるかどうか、今までお話しさせていただいたお祭りとも違いますし、それから先祖とかお墓とも違うものもあります。先ほどの墓地になりました請戸小学校から子どもたちが駆け上がって生き延びた大平山には宇宙桜という若田光一宇宙飛行士とともに宇宙を旅した桜が植樹されて「きぼうの桜」になっております。それから、富岡には津波に流されたパトカーが展示され、この殉職警察官がお星様になったという作文の展示を拝見しました。こうした自然や宇宙のメタファーも宗教文化、スピリチュアリティの次元として私たちは注目しています。
お星様になったというエピソードは少し説明が必要かもしれません。これは双葉署の警察官2名が震災時に人々に逃げる呼びかけをしていて自分たちは津波にのまれてしまったことに由来します。そして1人は今も見つかっていません。その警察官の剣道の稽古仲間の息子さんが、「お巡りさんはどこに行ってしまったんだろうか」と問い、作文をしたためました。彼はこんなふうに考えたのです。なぜ行方不明になってしまったのか、それは「お巡りさんが、お星さまになって今も我々を見守っててくれるんだ」、このような作文を稽古仲間の息子さんが書いたそうです。その作文は内閣総理大臣賞をとり、さらには紙芝居になり、我々の心を強く打つ感動的な作品として知られています。こうしたものが宗教文化かどうかというのは非常に難しいところですけれども、私は、危機にあってそれを乗り越えていく、生きる意味を問い直すスピリチュアリティと呼びたいと考えています。
さてまとめていきましょう。今申し上げましたように、危機の時代にあってはプロの宗教家でない、市井の人々から、素朴なスピリチュアリティというものが吐露されます。例えば、野口英世だったら「生死二境なし」、それから建具屋の遠藤さんだったら、「あの世とこの世を、亡くなった人と現世の人とをつなぐ」があるのだ、というような素朴なスピリチュアリティが吐露されています。さらに、今建設されている震災伝承館においては、思い起こされる祭り、そうしてそこで語られる地域や地元や墓や先祖、そして宇宙や自然に仮託され苦難の意味を問い、乗り越えていく語りを、私たちは目にすることができます。こうしたものを稲場圭信大阪大学教授は「無自覚の宗教性」と呼んでいました。彼はこれを「無自覚に漠然と抱く自己を越えたものとのつながりの感覚と、先祖、神仏、世間に対してもつおかげさまの念」と彼は定式化しています。まさにこうしたプロの宗教家ではないからこそ、素朴に吐露される無自覚な宗教性、素朴なスピリチュアリティがあるのではないのか。そして、これによって地域とか自分の苦難を乗り越えようというような手ごたえになっているのだろうと思います。
今までの話を、私は次のように図にすることができると考えています。プロの宗教家というのは垂直の乗り越え方をするのだろうと。つまり、神仏といった超越をよすがにし、乗り越えていくような、縦軸の、垂直の乗り越え方です。また、宗教を信じていない人たちというのはむしろ水平の、つまり、友人であるとか、家族であるとか、そうした横のつながりによって危機を乗り越えていくのだろうと思います。しかしながら、素朴なスピリチュアリティや稲場先生のいう無自覚の宗教性というのは、むしろ宇宙や自然、先祖や家、地元や故郷といった、垂直でも水平でもなく、しかし自分を超えたものをよすがにし、そして乗り越えていくような「斜め上から」のモデルがあるのではないかと思います。
先ほど言いましたように一神教というものはこうした神仏、垂直の乗り越え方をします。宗教を信じていない世俗的な支え合いのモデルというものは水平の軸だろうと思います。スピリチュアルケアはこのことをよく考えてまいりました。大下大圓先生は垂直を法縁と呼び、そして水平を他縁と呼び、この垂直と他縁とが交わったところが成長していくプロセスをスピリチュアリティの成長過程というふうに捉えました。谷山洋三先生は、さらにこれを精緻化させて垂直と水平、プラス斜め上があるということで彼は、先祖、偉人、物故者、真理、宇宙、思想というものを斜め上に掲げられております。こうした先行研究を踏まえたうえで、100年前のスペイン風邪や東日本大震災の時に示された生者と死者とのつながりの事例も含め、日本人は危機にあって、垂直の神仏や水平の他者とともに、宇宙・自然、先祖・家、地元・故郷といった斜め上の参照軸を頼りに、よすがといってもいいかもしれませんが、危機を乗り越えていのではないでしょうか。市井の人々の危機にあっての信仰復興の一つのモデルでも言えるのはなないかと問題提起しまして、私の発表を終えさせていただこうと思います。
3 コメント
(小原) それでは時間となりましたのでただいまから後半の方を開始させていただきます。今、4名の先生方にご講演をいただきましたが、まずそれを受けましてお二人の先生にコメントをいただきます。島薗先生、加藤先生の順でコメントをいただきまして、それに1つのきっかけを得て、今ここの前に座っている7名でパネルディスカッションを致します。最初、大体16時15分ぐらいにはパネルディスカッションを終了し、その後15分ぐらい皆さんとの質疑応答の時間を設けたいと思っておりますので積極的にご発言いただければと思います。では、早速ですけれども、まず島薗先生の方からよろしくお願い致します。
(島薗) 今回は危機ということで特に最初のお二方が大変な危機感ということを強調されたのですが、それとその宗教信仰復興というものがどう対応しているかというところで議論をしていけたらと思っております。これから危機について整理しまして、先生方には宗教信仰復興がそういう危機に対してどういう可能性があるのかと、このまま危機で滅びてしまうのか、それを克服していく道が宗教信仰復興という観点から見えるのかどうかということを伺いたいなと思います。まず、どういう危機かというのを3つに分けて捉えてみたいと思いますが、何と言ってもこの気候変動、地球環境の危機というのがますますひどくなっている中、しかもこれは食糧危機とか大変な難民が生じるということでもありますし、疫病、コロナなども結びついています。こういう我々が生きている世界そのものがおかしくなってしまっています。これをもたらしたのは人類でありまして、人類が地球を滅ぼしている、これ人新世の問題と言ったりもしますけれども、こういう問題がまずは意識されます。環境の危機ですね。あるいは地球の危機。それから2番目の観点ですが、今のロシア・ウクライナ戦争のようなものを考えると、これまで我々がこっちの方向に人類は進んでいくのだろうと、アメリカ、イギリス、あるいはヨーロッパが引っ張っていると。近代文明というものが進歩していくのだと。それを引っ張っているのは、資本主義で、資本主義経済とそれに対応した自由主義の、あるいは民主主義の政治。これが人類の向かう方向だと思われていたが、どうもそうはならないのではないか。ますますアメリカの力は限られてきます。代わりにロシアやインドや中国のようなこれまでの西洋風の資本主義、いわゆる民主主義とは違う何か多く掲げる勢力がむしろ目立ってきます。そして何よりもイスラームです。イスラーム勢力が、そういう西洋風の民主主義の方へ向かっていくとは思えません。その資本主義も行き詰っていて、その経済発展ということが地球環境をもたらしていますし、もうその資本主義というものを終わりにしなくてはいけないのではないかと。考えてみれば、経済成長によって、何か少しでも良くなっていく。我々が持っている困難は経済成長でだんだんこう解決するのではないか。これは一種の宗教みたいなものだったとすると、それが我々にとっては受け入れられない、それに耐えられないという事態になりました。だからこそ中国風の体制やイスラームの体制が、西洋になびかない、むしろそっちの方に信頼感があるように見えてしまうというようなことが生じているのかもしれません。こういうことに対して、我々は西洋風のキリスト教をモデルに宗教を考えるようなところがあったのですが、今どういうようにこれを考えたらいいのかというのが2点目です。3つ目の危機というのは、今の話とつながってきますが、例えばこの統一教会問題というものが今注目されています。そもそも宗教信仰復興会議といっても、多くの人には理解されないだろうと。というのは、伝統宗教、これは救済宗教と言ってもいいと思いますけれども、世界の三大宗教といえば、キリスト教、イスラーム教、仏教ですが、その救済宗教は、次第に受け入れにくいものになっていき、2千年前から、軸の時代と言ったりしますけれども、お釈迦様や孔子やソクラテス、イエス・キリストの時代、少し遅れてムハンマドの時代から始まってきました。そして今日度々中世の話がでてきます。中世というものに最も勢力を持っていた伝統の救済宗教です。世界宗教の時代というものがそもそも過去のものになりつつあるのかもしれません。これは宗教の危機といってもいいかもしれません。例えば弓山先生の仰ったことですが、無宗教の宗教性みたいなことがある。宗教以後の時代に改めて例えば供養とか、地元の文化とか、こういうところにかつての宗教が果たしていた役割が持続しているということがあります。これは日本の例ですが、京都の話をしますと、京都は、もともとは宗教が養ってきたものであるのですが、それを違う形で何か継承しようとするような、日本で顕著な動きかもしれませんけれども、こういうこともあるのかなと思います。以上、3つの危機、地球の危機、資本主義の危機、あるいは近代文明の危機、そして宗教そのものの危機、これに対して宗教信仰復興というものが、例えばイスラームは揺るがずに今こそ伸びているかもしれません。あるいは震災後の日本の伝統文化が、宗教とは少し形を変えた形で復興しているのかもしれません。あるいは日本の伝統宗教の中には、環境問題に太刀打ちできる何かがあるのかもしれません。様々な視点が4つのお話にあったと思うのですが、そのあたりを議論していけたらいいのかなと思っております。
(小原) 島薗先生、今後の議論につながる整理をしていただきましてありがとうございました。では、続けて加藤先生よろしくお願い致します。
(加藤) 今日4題のお話を聞きましたが、まず岡田先生のお話を聞きながら、今訪れている危機は人類全体にとって歴史的に眺めればそんなに大きいものではないということを知り、ある種の安堵感を覚えました。人類は、そういう危機に面しながらも常にそれに対して対処してこようとした。そして、そういった時に人類は連帯をすることができ、新しい体制を作ってきたことを岡田先生の話をうかがって、確信したような気が致します。
次に、鎌田先生のお話の中で、私が信仰している大本のお話も出てきましたが、明治時代の資本主義への移行期に予言していたように、今資本主義というものに対して色々な矛盾が噴出し、次の時代に向かった新しい価値観が求められる時期を迎えているのだと思います。そういった時期にどのような価値観が生まれ、共有できるのかが私にとっても大変関心があり興味のあるところです。そして、もう1つは天災、地災だけではなくて、人災についてです。人災としては、京都の山が荒れてきたということにより、都市が荒れてくるかもしれないという問題、あるいは岡田先生のおっしゃった原子力発電の問題などがあります。原子力発電は廃棄物の処理ができないのに、それを未来の子孫への借金として積み残したままどんどんエネルギーを利用しようとしているということができます。まさに、今だけ、金だけ、自分だけという考えのもとに原子力発電が行われているわけです。そういった人災をどのように皆が共通の意識をもって対処するのかは、私たちができることだと思いますし、やらなければならないことです。天災、地災は、なかなか回避することができない人類全体の問題でありますが、人災は前もって何かができるのではないか、やらなければならないと感じました。
水谷先生のお話からは、不易のもの大切さをお聞きしましたが、不易のものというのは一体何だろうと私は考えました。不易のものというのは、神様ではないのかと考えました。それ以外のものはすべて移ろいやすく変わっていくものなのではないでしょうか。
弓山先生のお話の中で、宗教者は垂直の方向のつながりを感じるけれども、一般の大衆は横のつながりの中でというお話がありました。その時に私が思い出したのは、米国においてスピリチュアルケアがどのような形で行われているのか、ケアされた人が誰から受けたと感じているかという研究の報告です。報告の中で、スピリチュアルケアをされた相手として一番多かったのが、家族と友人だったのです。家族と友人が41%で、医療者が29%で、宗教者が17%であり、神とか聖書がごく少数だったのです。つまり、私たちが救いを求める時に、あまりにも遠い存在である神にはなかなか近づけませんが、神を感じている環境や人々の中に神を感じており、そのようなところでケアされているのです。そういった意味で、これからの新しい宗教がどんな形でというのは、その復興の在り方に関係するのでしょうが、本叢書の小原先生の論文を読むことで、それぞれの宗教はそれぞれの宗教の中で色々な改革を行ってきたこと。それが復興でもあること。キリスト教はキリスト教の中で復興を行い、仏教は仏教の中で復興を行ってきたのだと思います。おそらく時代の要請により、今ある宗教そのものが全て大きく変わってくるのではないかと感じています。
東京会場で私はティール組織のお話をしたのですが、ティール組織は、来たるべき社会における組織はどのようなものであるかという調査の結果です。今がオレンジ(実力主義、利益第一、科学的、イノベーション)の社会で、そして次にグリーン(コミュニティ型、人間第一、平等と多様性の重視)の社会が来て、ティール(生命型組織、存在目的の重視、自主性、全体性)の社会へというお話です。それは人類の歴史とともに発達してきた結果であり、歴史的な経過の中で生まれてきた組織なのです。生産手段(狩猟から農耕、工業へ)から始まり、エネルギーの利用(火の利用、石炭、石油、原子力、再生エネルギー)、そして通信・コミュニケーション手段(言葉、紙、印刷、インターネット)の変化によりもたらされる組織の変化なのです。そうであれば、不変のものをといっても、未来の宗教が昔のものにそのまま還るのではなくて、人類が積み上げてきた文明、生産手段やエネルギーの利用方法、通信手段の変化を包含する新しい人と人とのつながり方や価値観がつくられて、新しい価値観が醸成された時に新しい宗教が生まれ、新しい世の中になるのではないかと考えています。
(小原) ありがとうございました。これから、なるべく多様な視点から今日のテーマに迫っていきたいと考えています。そもそもの問いは、弓山先生も問うてくださったように宗教信仰復興とは何なのかという、ことです。ですから、おそらくこの視点、この問いに対して答えるためには、宗教信仰復興と呼んでいたものが、過去どういうものであったのかという歴史認識というのは欠かせないと思います。それからもう1つは、かつてそうであったけれども今後、何をもって復興とみなすのか。これはおそらく過去の事例と同じところもあれば違うところもあるはずです。かつてであれば、この信仰復興というのは、ある宗教教団において信者の数が非常に増えたとうことでした。これは、例えばキリスト教の中で見られ、日本の場合であれば、例えば創価学会がある時期にすごく伸びましたということで、復興しましたということを言うことができます。しかし今後の時代においても信者数の増加をもって復興と呼ぶのか。そういう物差しを我々はどのような形でもつのかというのは、やはり問いとしてあるのではないかと思います。今日、先生方が比較的長い歴史のスパンでもってこの危機について語ってくださいました。これはまさに危機とは何なのかという問いに対するそれぞれのお答えだったと思います。岡田先生の場合、紀元前後というところから始まって、まさにこの2千年という歴史の中を振り返りながら、どういう危機があって、それに対して宗教が、社会がどのように対応してきたのかというようなお話があったわけです。ですから、その危機によってある種の変化が起こされたということは歴史的にも確認できますし、同じことが現代にもあると思います。島薗先生が触れられましたようにウクライナの危機、これはロシアによるウクライナへの侵攻というのはグローバルな影響力を及ぼした危機でありますし、コロナもそうです。ですから、ある種の危機が変化を起こす。その変化を我々がどう評価するか。それをやむを得ないものとして感受するのか、場合によってはそういった変化に抗うのか、そういう時にもやはり何に立脚するのかということが問われてくると思います。例えば、今2千年の長いスパンで危機への対応を先生方に語っていただいたのですが、直近のこの半年、1年の、日本社会における変化。大きな転換点いくつかありました。2つ挙げることがまずできると思うのですが、1つは原発への回帰。原発に回帰しましょう、と。環境問題大変だから、これから原発が必要ですよということで、原発の再稼働ということが、かつてはやめておこうと言ったことまでが、撤回されて今や原発への回帰という大きな曲がり角を曲がろうとしています。それから、もう1つは軍備増強への回帰です。今まではそういったことに対してきわめて抑制的な議論がありました。ところがウクライナ危機があり、北朝鮮が何発もミサイルを日本の近くに打ってくるので、防衛力を高めなければならないということで、ほとんど国民的な議論や合意を得ないままに、そして財源もどうなるかということも分からないままにとにかく防衛費の増強というのが、未来世代のためにとって必要なのだというこういったレトリックの中で説明がなされています。未来世代のために、これは地球環境を考えると非常に重要なキーワードですが、未来世代を考えるために我々は軍備増強をしないといけないのか、ということです。そのようなお金を使うぐらいだったら教育のために使った方がいいのではないかという考えもあり得るとは思うのですが、なかなかそういった方向に議論がいきません。こういった大きな転換期、危機によって起こった変化、それが日本社会にとっても、いくつか今言いましたような原発への回帰や軍備増強への回帰といった変化をすでに起こしています。こういった文脈の中に私たちは置かれていると思います。そこに今、島薗先生、加藤先生からそれぞれ問題の整理、それから発表に対してのコメントをいただきましたので、最初にまず岡田先生から発表の順番に今のコメントに対してどう考えるかというリプライをしていただければと思います。それから場合によっては、他の発表者に対してこの先生のこの発表に対して私はこう考えましたという反応を含めていただいても結構だと思いますので、まず順にご発表いただきたいと思います。岡田先生からお願い致します。
(岡田)私は頭の回転が遅いものですから、皆さんのお話を聞いているうちに色々考えたらいいなと思っていたのですが、島薗先生が危機について見事に4人の話を横向けにきってくださって、3つの要素を取り出してくださいました。そのうちの最後の宗教の危機というところが1番私どもにとって気になるところであります。その救済宗教が受け入れにくいものになってきた、宗教の形が変わってきている。それは、加藤先生が取り出された水谷先生のお話の中にあった不易のものと、つまり変わらないものと変わるものというこの問題ともリンクしているとも思うのですが、変わるということが今すごく大事だと思います。京都は皆さんもよくご存じのように新しもん食いの土壌だと思います。よく子供の時に言われました。奈良は古いものを保存してくるけど、京都の人は皆新しもん食いや。確かにそうだと思います。新しもん食いだから常に新しくすることによって文化を継承してきたのだと私も感じております。だから、既得権とか権威とか権力とかにしがみついていたら、もう京都はしまいではないかという印象を持っていますし、宗教も今小原先生が仰ったように何をもって復興と呼ぶのかというところを間違うと、何を守るのかというところを間違えることになって、結局はますます逼塞していく方向をとることになります。何を逼塞と言うのかという問題もありますけれども、やはり今私どもは形を変えつつある社会をどのように捉えて、どういう新しいものを使いながら今の危機を越えていくのかということを考えていかなければいけないと思います。例えば、私の信仰からいけばやはりこれからの宗教者というのは天から降ってくるものであれば、誰も信じないだろうという気がしております。超能力的な人が天から降ってくるというようなことは誰ももう信じていません。地面から涌く菩薩というのが『法華経』にあります。菩薩は地面から涌いてくるという。これは、東京電力福島第一原発の吉田昌郎所長(当時)さん、もうお亡くなりになってしまいましたけれども、あの方が原発の事故の現場に何人も菩薩がいたということを仰いました。それは、地面から涌いてくる菩薩だったとういうことを。そういう人たちがもう現れているはずです。だから我々の周りにそういう人が現れているのを見つけ出していく時代ではないかと考えております。変わらないものというのは確かに神様でしょうし、仏様でしょうけれども、変わらないものは常に変わることによって永遠につながっているという考え方もありますので、私としてはこの中で出てきている新しい動きというこれを注目していきたいと感じております。
(小原) ありがとうございました。超越的なものとか、天から降ってくるようなものを信じることができなくなった時代にいるという、こういう時代の中で信仰復興というのは問う価値があるのかどうか、それをまた議論できればと思います。では、次に鎌田先生お願い致します。
(鎌田) まず、先ほど加藤さんの方から、小原さんでしたかね、天災、地災、人災っていう3つのお話がありました。島薗さんでしたかね。
(加藤) 私です。
(鎌田) その人災に対して何ができるのかということですが、梅原猛さんは人災が巨大化して文明災になっている、つまり、我々の時代の人が起こす災いというものは、人災という言葉ではもうまとめきれないほど巨大化していると言っています。資本主義の問題も戦争の問題もそうですが、その巨大化している文明的な転換を起こさなければいけません。近代の大本にはそういう文明的な転換の思想はあった。それが今日尚且つ有効かどうかは、検討しなければいけないですが、大きい筋として間違ってはいなかったと私は思っています。では、どういう文明的な転換が必要なのかという時に、加藤さんの答えはティール組織ですが、ティール組織が最も適切なのかどうかも含めて実践的にそれぞれがやっていく。そしてもっと大きい世界規模の文明の転換というものをどう計っていくのか。宗教がどこに関わるか。宗教は1つの哲学とか思想とか、また実践的な基盤というものを与えるものだと思うので、それにどう宗教が関わるかというのは宗教復興の1つの在り方だと思います。もう1つは、宗教間の対立や分断です。これは結構深刻で、ロシアの問題にも宗教が無関係ではない。欧米の対立、中東の対立、あるいは東アジアの様々な対立の中で、宗教が対立を倍加させてきたという側面もあります。分断をより深刻なものにしたという側面があります。だからその宗教がもたらした分断とか対立をどう緩和できるのかといった時に、方向は「インターフェイス(Interfaith)」しかないと思います。インターフェイスというのは、信仰のインター、交わりというのか、それぞれの信仰や信念の間をどうつないでいくことができるのかということで、そうした意識や理念のもとで、各宗教・各宗教の人々が、異なる宗教、異なる信仰の形をどう理解しつつ協力できるのかという道を模索し実践していくことなしには先には進めないと思います。自分の宗教や信仰が唯一絶対だと思っていたら、そこで分断は消えることはありません。では、そのインターフェイス的な在り様というものが何であったのか、これについても出口王仁三郎は「万教同根」の思想を提示しますが、人類愛善会の思想もそうだし、エスペラント語の運動も、明光社の芸術運動もそれぞれ1つの解答を与えていたと私は思っております。だからインターフェイスをどう深めるのか。信仰のインターをどうつなぎ、作るのか、これは宗教家が関わらなければならない、かなりエッセンシャルな問題だと思っています。それと関わることですけれども、フェイス(信仰)の形は純粋な宗教信仰だけではなくて、様々な儀礼に現れ出てきます。儀礼の中に本当に独自の神事的な儀礼の部分と、芸能や遊びや娯楽の部分、つまり芸術とか芸能に関わる部分があります。その間をブリッジするような、インターフェイスのフェイスをブリッジするような、宗教芸術や芸能が大切になってくると思うのです。例えば、バッハを聞いて怒りが沸き起こってくるような人は少ないと思いますし、グレゴリア聖歌に関しても同様です。そういう、何か祈りのある種の崇高さとか透明さとかやはりあると思います。讃美歌の中にもそれはあるし、仏教の声明の中にもある。また、イスラームの祈り、これは音楽とは捉えられないでしょうけれども、アザーンにもそれはあると思います。そういう祈りの宗教文化がもっている、人々の心を浄化する力、つまり芸術、芸能というジャンルに括られるものではなくて、その人の心の中にある感情の浄化作用をもたらす装置や表現や儀礼をどう創出できるのか。平家物語も中世という新しい乱世の時代の救済の宗教的芸能でした。能もまさにそうです。だから私は現代の能を作ろうとして、震災復興のいくつかの神社を、2つの神社ですが、新しい能舞というのを作りまして、京都の観世流能楽師の河村博重さんと2人で奉納しました。それぞれ30分ほどの1つの曲を作って。例えば、そういうものも1つの実践形態で、これによってすべてを解決することはできませんが、私たちができるいくつかの試みといいますか、実験はやはり行っていく必要があると思っています。以上です。
(小原) 鎌田先生ありがとうございました。今議論すべき大きな問いがさらに見つかったなという気がします。インターフェースもまさにそうで、今回のシンポジウムはそういう形をとっていますが、これをどのように深め、さらには広げていくかということが課題としてはあるということを改めて感じました。では、次に、水谷先生よろしくお願い致します。
(水谷) 確かに私が先ほどお話したのは、文化の継承と創造の方に軸足といいますか、比重がかかっておりまして、イスラームの中でそういう危機感があるかということはあまり言及しませんでしたので、補足もかねて、頂戴したコメントも踏まえてお話させていただきます。それはどういう危機感が、今イスラーム世界というのでしょうか。私としては、中東諸国が念頭にありますけれども、広がっていくか。これは簡単に言えば、ネット検索を行うと、しきりに山のようにそういう関連の記事などが出てきます。そのテーマとしましては、ほとんど変わりないのですが、環境問題、食料、疫病それからエネルギー問題といったようなところであります。これは先ほどの島薗先生が3点に分けられましたうちの地球的危機の範疇に入れられるかと思うのですが。ですから、そういった部類、あるいはカテゴリーの諸問題は、中東、イスラーム諸国でも大いに懸念され、議論がされていますが、大なり小なり欧米諸国、あるいは直接日本を引用したものはないにしてもそういう欧米諸国での議論の反映であります。あるいはそういう議論を紹介する形でのジャーナリスティックな書きもの、これがあふれております。ですから、この側面についてのイスラーム固有の寄与といいますか、貢献といいますか、特徴は、取り立てて今ここで申し上げるべきものはありません。諸問題のポイントはすべて我々が見聞きしている範囲といえるかと思います。他方そういう危機感であるということは、それ以上に危機感はあまり取り立てて今論議されてないということです。島薗先生の第2の側面であったかと思います近代文明に関する危機感、これは今議論されていません。しかし、ある意味ではもう19世紀の末以来、イスラーム文明の中では近代文明との衝突という意識で、あるいは近代文明にどうやって追いつけるかと、先ほどした話で言った鹿鳴館時代的な感覚で様々に議論されてきました。それは教育改革であり、法律の改正であり、軍事改革であり、ということです。ですから、大なり小なり明治維新以来の日本が辿った道と相当似たような側面もあります。これは今まで相当議論されてきて、かつ相当に実践もされてきたので、今は表面だけではイスラーム世界では荒立てて議論はされていないという状況だといえるかと思います。最後残るのは宗教的な危機であります。これも、あまり危機とは、あまりどころか全く危機とは思われていないです。救済宗教でやっていけるのかというテーマ、日本のようには全く出てくる余地がありません。イスラームはイスラームで押し通すというか、イスラーム、救済宗教、一点張りです。イスラームはイスラームでいいのだと、そういったこととの関連でいけば、イスラームはずっと良かったのかというと絶対そんなことはありませんので、皆彼ら自身が認め、かつ議論しています。今まで何回もイスラーム復興の運動や思想がございました。その大半の立場や方法は、イスラーム以外の雑物が入ってきたので、そういったものを浄化すると。ですから浄化イコール復興という発想が非常に強かったということが言えると思います。それは今のイスラーム諸国の多くの立場でもあるわけですが、最近あるいは今後遠からず大きく出てきたものは、そういう浄化をすることによって復興を図るということで果たして済むのか。従来はそれで非常に力を得てきました。本当に復興しているか復権といいますか。勢いを増したことは間違いないです。それは現在のサウジアラビア王国をつくった元にもなっていますが。サウジアラビアだけではないですが。エジプトでも復興イコール浄化運動だったと。ところがこの浄化運動も、どうかと。つまり、今後考える場合に同じ方法、同じアプローチで復興が果たしうるかどうかということは大いに問われていかなければいけないのですが、そういうことはまだ議論にはなっていません。じゃあ、全く復興という必要性や議論がないかというとその問いは薄々あるわけです。それは言い方が難しいし、色々な人が当然いますから、色々な意見があるわけですが、簡単に言うならば、礼拝に来る人が減ったのではないかと。減ってはいないけれどもそそくさしているとかです。簡単に言えば信仰の緩みというか、弛緩。これがやはり懸念材料にはなっています。そういったタイトルの本も出版されたりしていますが。ですからこれは直復興だと大騒ぎするようなほどのまだ荒立った問題にはなっていませんが、信仰がかつてあったように厳しく求められる、不動の精神が欠けてきているのではないかという懸念はもたれます。その中で今後の浄化ということを訴えることで、復興が今までのようにできるのかということは大いに疑問になっていくのではないかと私は言わざるを得ないと思います。ですから基本は変わりないです。基本は変わりないけれども、また新たなアプローチということは言われていくのではないかと。最後の1点、2点ですけれども、そういう中で他方、真に実に多様な努力が重ねられてきているということを申し上げたいです。イスラーム、かつてはテロの問題が脚光を浴びました。その時もイスラーム世界の中では、イスラームにおいてテロというのはあり得ない話だったということを実に様々な大規模な国際会議を開いて繰り返し、まさしくメッカで開催しました。私も1度招かれて行ったことがありますけれども、ここで申し上げたいのは、そういうイスラーム世界内の努力がそれ以外の世界にほとんど伝わらないということです。メッカに至ってはムスリムしか入れない地域ですから、CNN、アメリカ方面のジャーナリストは入れないわけです。かといって全然何も流れてこないのではなくて、アラブのジャーナリストは流しているでしょうけれども、他方それを見る欧米の人たちも最初から色眼鏡で見ています。例えば昨年の11月のバーレーンが新しい事業を始めました。これは、イスラームとキリスト教の宗教対話を推進すると。そのためにローマ法王はバーレーンを訪問しました。そこへイスラーム側の代表としましてはエジプトのアズハル大学の総長が来ました。それをお互いが今後宗教対話を真剣にやらないかんということで合意しました。ところが日本では知る人は、ご存じかもしれませんが、ほとんど報じられていない。知られていない。私もそんな記事を今月に入って、アズハルの関係者から送ってきたので、こんなことがあったのかと、こんな立派なことをやっているのだ、どうして最も大々的に知られないのかと驚いたわけです。それは先ほどのメッカであった反テロリズムの国際会議も同様ですが、彼らの行っていることはほとんど外界に見ない。ということは欧米のメディアに載らないです。日本は多聞にその欧米のメディアのさらに裏返しで見ている面がありますから、あまり行っていないのではないか、宗教対話を一体彼らが行おうとしているのか、どう考えているのかというようなことに疑問が湧いてくるという懸念を持っています。ということはイスラーム諸国の関係者、私の知り合いを含めて、かなり私行っているのですが、私1人が言っても大きな流れが変わるわけではありません。ローマ法王の方も、それはローマ法王の行事としては掲載しているでしょうが、大々的に報じるということはなかったようです。もっと言えば色々あるのですが、一体どういう宗教対話をしたのかという中身も大事なのですが。それから加藤先生の方からいただいた不易は神様が不易ではないか。文字通りそうだと思います。ただ、私が少し申し上げたのは、文化の継承と創造という側面における不易と易というふうに絞れば、例えば茶室、新しいものをつくるという時に躙り口は捨てられないでしょう。謙譲の心を象徴するものですから。他方、一旦茶室に入ったら、それは正座であるのか、椅子に座ってでもいいのか、色々変えられる面もあるかと勝手に想像しますという話をしました。要するに、ここは変えてはいけないのだというものを決めて、そこはきっちり守っていく、それが不易。それ以外はむしろ易で新しいものを取り込む。そこにおいて創造力を発揮することにより、その文化の真の価値が継承されるというお話をさせてもらったつもりでした。最後しきりに出てきました京都の森の文化を守る会ですか。正式な名称は忘れましたが、鎌田東二先生のしきりのアピールもありまして、当法人、一般社団法人日本宗教復興信仰会議からも非常に軽微ではございましたけれども、この森を守る会に多少の支援金を支出して協力していこうという姿勢でおりますので、この機会に紹介させていただきます。ありがとうございました。
(小原) 非常に多くのお話いただきました。特に宗教信仰復興とは何かという大きな問いに対してイスラームの文脈の中では浄化という考え方と結びつきやすかったというお話でありました。これは言うまでもなくキリスト教にも対応物がありまして、浄化する人、ピューリファイしようとする者がピューリタンとして誕生した時代もあります。宗教のエッセンスを再確認するという点で浄化は大事ですが、その長い歴史の中では、浄化ということがその目的にそぐわない人を排除するという問題もありました。キリスト教史の中で浄化という言葉を聞くと、真っ先に思い浮かぶのでは、十字軍です。十字軍は、ムスリムによって支配されたエルサレムの地を浄化せよ、という教皇の呼び声によって始まりました。ですから、浄化という言葉がもつポジティブな面とネガティブな面、それを歴史的に検証していき、我々の時代においてどう使うのかということを考える必要があるかと思いました。宗教間対話に関しても非常に興味深いお話になっていました。では、最後に弓山先生よろしくお願い致します。
(弓山) 弓山です。コメントどうもありがとうございました。加藤先生の私の垂直水平のところのスライドへのご質問だろうと思います。神といった垂直軸を重んじているであろう米国においても、家族や友人の水平軸のスピリチュアルケアが重要だということをご指摘されたのですね。
日本でスピリチュアルケアの理論的な支柱を作っている人の1人に窪寺俊之先生がおられます。彼はクリスチャンで、窪寺先生のモデルというのが、超越と内在という縦軸から危機を乗り越えていくというようなモデルを提言されます。またそれに対して日本的なスピリチュアリティとか日本的なその乗り越え方の可能性もあるのではないかというのが、ご紹介させていただいた大下大圓先生でありますとか谷山洋三先生の考え方で、私もそこから大きな示唆を得て、斜め上のような、つまり垂直ほどの超越性ではないが、斜め上に何かこういう自分たちが乗り越えていく時の頼りであり、よすがであって、それが神様ではなくて日本的な伝統においては自然や宇宙や、また先祖や家、地元や故郷といったものが、テーマとなって乗り越えていくのだろうということを申し上げさせていただきました。
島薗先生からの問いかけは、3番目の危機ですね。多分これ教団の危機というふうに言っていいのではないかと思います。その時に少し思い返されるのが、鈴木大拙の『日本的霊性』という本の中にでてくる霊性(スピリチュアリティ)の定義です。鈴木大拙は、宗教と霊性というものを分けて、宗教というものは目に見える、例えば経典がありますねとか、それから祈っていますね、儀礼がありますね、組織がありますねという、そういう教義・儀礼・組織を宗教としました。それに対して彼は宗教経験それ自体を霊性と呼ぼうと『日本的霊性』の中で規定しています。今回私が考えた素朴な霊性(スピリチュアリティ)というのは、まさにそうした教団の教義・儀礼・組織に回収されないような素朴な、例えば死んだ母親との行き交う波濤、またお星様になって見守っていてくれるような考え方、墓だけでも地元に戻したい気持ち、そういったところに危機を乗り越えるような何かがある。それは先ほど加藤先生のコメントに対する質問でも答えさせていただいたのですが、そこに注目したいと思っております。ただそういったものが教団的な背景がないために、根無し草的な危機感、危機があるというのもまた事実であろうと思います。
(小原) ありがとうございました。最後、この後の質疑応答の時間も残しておきたいので、あと10分ほど前の方で続けて議論させていただきます。今、弓山先生が教団宗教と違うものとしてのスピリチュアリティがあり、それには色々な側面があるということを問題提起してくださいましたので、続けて議論させていただきます。島薗先生どうでしょうか。そこのあたり島薗先生のお話の中でもキリスト教者をモデルにした宗教概念だけではなく、ということもお話いただきましたので、そのあたりからご議論いただけますか。
(島薗) 『宗教信仰復興と現代世界』ですね。第1巻です。この中では、宗教信仰復興というのを議論するにあたり、キリスト教やイスラームや仏教が出てくる。神道も出てくるし、新宗教も出てくる。だけどそれ以外に無宗教とかスピリチュアリティというものを取り上げました。これは世界的にいうと、日本では分かりやすいけれども、イスラーム圏では全く分からないだろうと。ヨーロッパでもどうかと。アメリカはかなりそれに近い。最近、米国では無宗教のチャプレンがいるそうですから。ですが、こちらの方向というのが、重要性が増しています。なので、鎌田先生も京都の森、京都の文化の中にある宗教とつながっている大事なものということを言われました。そういうふうに考えると、イスラームでは全くそういうことがないのかという。今日私、水谷さんのお話を伺っていると実はイスラームにおいても、その純粋な、純化されてこれこそイスラームだということとともにこういう形で巡礼は行われて、巡礼に行くことが一生に一度は行きたいということです。そういう生きていく支えになる形の中に入っている宗教、それは宗教が教団としての勢力は見えなくなっても、やはり生き続ける。たとえば、じゃんがらというものが、先祖から伝わってきた大事なものだから、そこに戻ってきたい。京都の山が崩れていってしまうことが、何か大事なことを我々は失っていくことになる。こういう感覚です。私は生きる形と言ったりしていますが、生きる形の中に宗教の根本的な部分があるという、そういう感じをこの本の中では少しは示しているのではないかということです。いろいろな危機があっても実はそういうものは根強いのではないか。これが弓山さんと私の観点かと思います。
(小原) 今、島薗先生の方からイスラームとの対比も出てきました。確かに、歴史的背景は違っても、日本において、あるいは欧米においてスピリチュアリティというと一定のイメージを写すものがあるのですが、では、イスラーム圏においてはそういうものがあるのかという、そのあたり少しお話聞かせていただければと思います。いかがでしょうか。
(水谷) イスラーム圏といっても広くございますというか、世界中に広まっていますから、まずは中東、特にアラブ諸国を取り上げて考えてみると、先ほどすでに見てきましたが、万といますから、色々な意見、展開があるのでしょうけれども、基本的な主張としては、スピリチュアリティを認識し、それを推進しよう、あるいはそれを独自の固有のものとして取り上げる。そういう動きは、目立ったものはございません。ただ、それは中東を中心にして見た場合ですね。他方、欧米においては、特にアメリカ、カナダあたりですけれども、イスラームのチャプランシーです。宗教の専門家というか、いわゆる牧師さんというほどの専門家ではない、あるいは学者ではないけれども、より現場的に人々のケアにあたるというチャプレンです。イスラームのチャプレンというものが非常に近年発達してきています。これは制度的にもまだ発達中で、そのための資格、試験をどうするか。それをキリスト教のチャプランシーは長い歴史があるそうですから、私は語る必要はないでしょうけれども、そこにおいて非常にきっちりした制度、資格テスト、資格を受けるための訓練の仕方等ゝが、教本があって、立派なものができあがっている。それを参考どころか、それに追いつこうというわけでイスラームもやる気はめちゃくちゃあるわけです。カナダでもそうだと。アメリカではせいぜいこの10年、もっと正確には、覚えていませんが、せいぜい10年ぐらいです。最初は大学、あるいは軍隊の中で、そういう限定的なものであったのが、一気に全米的に、かつその職域に関係なく広がりつつあります。あるいは広めようとしています。この運動はもう明々白々です。ですからその中において、先ほどの話題のスピリチュアリティの側面は当然あると思いますが、それもスピリチュアリティとして光が当てられているかどうかというと、あるいは一部当てられている人もいるでしょうし、おられても不思議ではないんですが、そういう統計資料があるという話も耳にしたことがありますが、まだ目立ったものはいまのところ出てきていないということではないかと理解しています。
(小原) ありがとうございました。では、加藤先生どうぞ。
(加藤) 今、イスラームのスピリチュアリティという話を聞いて思い出したのですが、WHOが健康の定義を変えようとした時、身体、心理、社会的の3次元にスピリチュアルの次元を加えようという提案がされたのは、イスラーム圏の国からだったという歴史があります。その時に割と反対したのがオランダなどヨーロッパの諸国だったということです。ですから、イスラームがスピリチュアリティを大事にしているということを私は想像しております。もう1つ付け加えたいのは、大本が、というより綾部市なのですが、大本の本部がある綾部市で、パレスチナの子供とユダヤの子供とを一緒に生活をさせるというキャンプをもった時期があります。そうすると、最初は身も知らない人、あるいは敵の子供達として、交わることができないのですが、1週間も生活しているとだんだん会話ができるようになり、それぞれお互いに人間同志であることを認めるようになり、最後にイスラエルに帰った時に、空港で先に出られたのがユダヤの子供達だったそうです。パレスチナの子供がまだ出てこないからというので、ユダヤの子供達がでてくるまで待ち、そこでお別れをしたという美談を私は聞いています。つまり、宗教間対話は現場で、あるいは生活の場で、それぞれの宗教、違った宗教をもった人が交流することが大切なんだと思います。実は私自身は大本の信者ですが、今MOAという世界救世教系の団体の診療所で週3日間働いています。それもある種の宗際活動だと私は考えています。私自身がそこで働いている間にだんだんMOAの方はこういう考え方やとらえ方をするということもを私自身が理解しましたし、MOAの方も大本の一信徒である加藤はこのように考え、こんな形で一緒に仕事をできると認識されてきたと思います。そのように、何か生活する場、あるいは行動する場で、それは例えば京都の山を再開発するとか、再整備するということで協働する目標をもつこと、そこに色々な宗教の人が加わり、協働する中で、宗教間対話が成立し、そのことが繰り返されていけば、わたしはそれぞれの宗教が排他的にならずにすむのではないかと考えています。また、出口王仁三郎が戦前に万教同根を提唱し宗際活動、インターフェース活動を始めようとした時に、その時に「芸術は宗教の母なり」という言葉を出されたと聞いております。つまり、芸術が宗教同士をお互いに認め合う一番良いツールになるということを認識されていたのではないかと想像しております。
(小原) 水谷先生どうぞ。
(水谷) イスラームにおけるスピリチュアリティのことが出ていたので、それにコメントしてクリアにしておきたいのは、イスラームには従来から精神論というカテゴリーを設けて、例えば巡礼につきましても精神面を取り上げた精神論という独特の固有のジャンルがあるわけです。これは昔からございます。ですから、その精神論と日本語で言っているものをアラビア語で言うと、ロウハーニーヤですが、ロウハーニーヤを英語にすると、スピリチュアリティになります。これは、今日しきりに出てきています「無自覚の宗教性」というものとは違います。ですから、イスラームにおけるスピリチュアリティといった場合には、簡単に言えば、古いのか、今様のことを言っているのか区別の必要があるわけです。
(小原) ありがとうございました。今日は、結論めいたものを出すことが目的ではないと思います。宗教信仰復興であるとか、我々が今ある危機にどう対応していったらよいのかということが、大きな問いとしてたてられて、その問いの下に先生方から色々なキーワードが出されたかと思います。島薗先生は、危機を整理してくださいましたし、インターフェースや、芸術や、スピリチュアルなど色々なキーワードが出されましたので、そうしたものを手がかりにこうした課題に対して今後も考え続けていきたいと思います。
以上
シンポジウム東京会場の動画について
シンポジウム 「ポスト・グローバリズムと多文化共生」は東京会場において2022年11月27日(日)に開催されました。
その模様はYouTubeにアップされています。以下のURLからご視聴下さい。https://youtu.be/Y7zrjDIAI5A
討議起こしテキストは、このHPに掲載済みです。
シンポジウム京都会場の動画掲載
シンポジウム「現代における宗教信仰復興を問う」は、京都会場において、1月22日に開始されました。
その動画が、YouTubeにアップされました。以下のURLからご視聴下さい。https://youtu.be/ihjfLbPy0qM
なお3月初めには、討議起こしテキストも本HPに掲載予定。