一、震災の苦難から立ち上がるケア
僧侶らによる移動傾聴喫茶
東日本大震災後には、津波の被災地で多くの住民と僧侶の間で、死別の痛みを抱える人々の悲嘆の受け止めがなされた。東日本大震災で被災者を力づける働きをした宗教者の活動の一つに「カフェ・デ・モンク」がある。「宮城県復興応援ブログ ココロプレス」に掲載された「「カフェ・デ・モンク」は移動傾聴喫茶。お坊さんが文句を聴きますよ」(二〇一二年二月二〇日)という記事(http://kokoropress.blogspot.jp/2012/02/1.html )と北村敏泰氏の『苦縁』(二〇一三年)の記述にそって説明しよう。
お坊さんたちが軽トラックに喫茶店の道具一式を詰め込んで、被災地を巡る「移動傾聴喫茶」。おいしいコーヒーを無料で提供しながら、被災者の話を聴くなごみの空間を提供しています。その前代未聞のプロジェクトを立ち上げたのが、築館にある通大寺の金田諦應住職。」(「「カフェ・デ・モンク」は移動傾聴喫茶……」}
金田氏が住職を務める通大寺は内陸の栗原市築館にある。栗原は県内最大の揺れに襲われ、通信・交通が厳しい状況では他地域の実情は分かりにくかった。だが、津波で多くの人命が失われていることは携帯ラジオを通じて当日から分かっていた。その夜、金田氏は満天の星を見上げた時、南三陸の海に数限りない遺体が漂う光景を思い浮かべた。そして「私とあなたの区別が消滅する感覚にとらわれた」という(『苦縁』、二七〇ページ)。
一週間後から40キロ離れた南三陸町から市内の火葬場に遺体が運ばれるようになった。「最初に来た遺体は2人の小学生。仲良しだった2人を、せめて一緒に荼毘にふしたいというご両親の願い。若いお坊さんたちは震えていました。身を震わせ、声をつまらせながらの読経。もうね、お坊さんたちもフラフラになりながらお経を上げ続けましたよ。」(「「カフェ・デ・モンク」は移動傾聴喫茶」)
自他不二と慈悲
金田氏はそう述べているわけではないが、「私とあなたの区別が消滅する」というのは、大乗仏教で「自他不二」「自他一体」「自他互融」等の用語で示される境地を意識したものだろう。慈悲の実践を支える倫理は「自他不二」の境地から発するものと理解されている。中村元の『慈悲』(一九五五年)にはこう述べられている。
“慈悲の実践とは、他の視点からみるならば、事故と他人とが相対立している場合に、自己を否定して他人に合一する方向にはたらく運動であるということができる。それは差別に即した無差別の実現である。(九三ページ)”
この思想を定式化した大乗仏教の先達はシャーンティディーヴァ(寂天、六五〇年頃~七五〇年頃)で、「修行者の理想は「自他平等」(parāmasamatā)であり、「他人を自己のうちに転廻せしめること」(parātmaparivaratana)をめざさなければならないと述べた。はるかに時代が下るが、鈴木正三(一五七九-一六五五)は「自他無差別を知るは理也。慈悲心を専とするは義也」と述べている。
震災が襲った当日の夜、金田住職が体験したものはこの境地に通じるものだろう。「この自然の、この宇宙の、なんと残酷で、悲しく、美しいことか。このときに、宇宙まで抜けていく感覚というのかな、命がひとつになった感覚を味わった。」それはまた、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」の末尾で、漁師の小十郎を熊たちが悼む場面を思わせるものでもあった。(「「カフェ・デ・モンク」は移動傾聴喫茶」)
「なめとこ山の熊」は仲間たちの死と非情な運命に耐えて生き延びていかなければならない生き物の悲しみと、悲しみを内に抱え込むが故にやさしく他をいとおしむ慈悲の力が小十郎と熊たちの連帯を通して描かれている。金田住職の姿が小十郎と重ね合わさってしまう逸話だ。
四十九日の行脚とそこでの思い
金田住職は震災から四十九日の弔いに、南三陸の海辺に読経の行脚をした。
節目でもあるので、犠牲になった方々への鎮魂をこめて、南三陸町へ合同行脚したという。お坊さんと牧師の12名。諦應和尚は灯りを持って歩いた。“命の灯り”として……
自衛隊員も大勢いて、黙々と遺体捜索をしていた。なんとか四十九日までに探し出したい、というのが伝わってきましたよ。この日、6名の遺体が見つかった。しまいには涙でお経が読めなくなった・・・これをやりながら自問が湧き上がってきたのよ。“宗教ってなんなんだ!現実ってなんなんだ!”って。神も仏もなくなったような状態だったからね。あの瓦礫を見てさ。“神ならびに仏の成せる技とはこんなものか!”と。(「「カフェ・デ・モンク」は移動傾聴喫茶」)
この時、廃墟の傍らの山桜の美しさに目を奪われた。「目の前の惨状も、鮮やかな花も、同じ神仏の力なのだ」と仏法の核心にふれた思いがしたという(『苦縁』二七一ページ)。
四十九日の後、僧侶仲間で炊き出しを始めたが、すぐに「移動傾聴喫茶をやろう!」と思いついた。震災当日の、また四十九日の体験を踏まえ、宗教者だからこそやれる支援とは何かについて考えて、得られたアイディアだった。
苦の現場に向かう伝統仏教
東日本大震災では日本仏教の力が見直された。苦難の中にある人々に手を差し伸べ、折れそうな心を支え沈みそうな心をすくいあげる働きが目立った。ここまで述べてきた僧侶たちの働きはそのよい例だ。
日本仏教史をひもとけば、そのような仏教の働きはふんだんにあって、まったく珍しいものではないのだが、第二次世界大戦後、伝統仏教が苦の現場から離れて浮き世から遠いところにいるという印象が強まっていった。浮世離れしている、だがそれにしては俗化しているお寺というイメージだ。
「葬式仏教」という語は一九六〇年代初めに使われるようになったもので、そんな伝統仏教への苛立ちが含まれていた(圭室諦成『葬式仏教』)。折しも新宗教は大発展期で、在家仏教を唱える霊友会、立正佼成会、創価学会などが急成長をとげていた。菩薩行としての苦の現場での助け合いは、これら新宗教教団においてきわめて活発になされていたが、伝統仏教教団の寺院は人々とふれる場が葬祭に特化して、いのちの通わないものになっている、そう感じられるようになった。だが、カフェ・デ・モンクの例を見れば、それは錯覚だったかと思われてくる。苦の現場に赴いて人々を支える伝統仏教の僧侶の働きは目を見張るものがあった。
教えを説かないカフェ・デ・モンク
知人のパティシエに頼んで作ってもらったケーキ、テーマ音楽はセロニアス・モンクのジャズ、愛称は「ガンジー金田」と遊び心も織り込まれている。車から降ろして立てる小さな案内板には、こう書かれている。
“Café de Monk”はお坊さんが運営する喫茶店です。
Monkは英語でお坊さんのこと。
もとの平穏な日常に戻るには長い時間がかかると思います。
「文句」のひとつも言いながら、ちょっとひと息つきませんか?
お坊さんもあなたの「文句」を聴きながら、一緒に「悶苦」します。
この「カフェ」では、たとえばこんな会話が行われる。
娘「あれ(訃報が届く寸前に窓辺にきた鶯)はじいちゃんが最後の別れを言いに来たんじゃろうか」
金田住職「その通りだよ。じいちゃんだ。命は皆、つながっているんだから、今度はトンボになって来るかもしれん。だから寂しがらんとね」(『苦縁』二七二-三ページ)。
多くの被災者がここで心慰む時を過ごした。金田住職は伝統仏教の底力を示したとも言える。だが、そのやり方は創意に満ちていてユニークだ。けっして上から既存の教えを説くのではない。「傾聴」の姿勢で寄り添う。曹洞宗固有の教えは話の中に出てこない。また、宗教・宗派を超えて「心の相談室」に集う宗教者が協力する。ともに祈りの行脚もする。
「心の相談室」の新しさ
「心の相談室」は仙台で3.11直後に立ち上がった連合体だ。宮城県宗教法人連絡協議会に属する団体の宗教者が斎場で合同で慰霊にあたったところから始まった。仙台で長く終末期の看取り、とりわけ在宅の緩和ケアにあたってきた岡部健医師を室長に、東北大学の宗教学研究室に事務局を置いて活動を始めた。宗教者、医療者、宗教学者、グリーフケアの専門家などの協力で活動を続けている。(高橋原「「心のケア」に大きな力――宗教の果たす公共的役割とは」)
「心の相談室」の活動は、市営斎場で行われる毎月の合同慰霊祭、宗教者による無料電話相談、宗教者が仮設住宅を回って開く傾聴喫茶カフェ・デ・モンク、ラジオ版カフェ・デ・モンクの放送など。
ラジオ版カフェ・デ・モンクは当初は岩手、宮城、福島の3県でFM放送されていたが、その後エフエム仙台のみとなり、二〇一四年春まで続いた。毎回、ゲストがインタビューに答えて語るもので、被災者や支援者の心に届くメッセージを届けようとしている。宗教者が多いが、学者や文化人も登場する。金田諦應住職ら「心の相談室」がプランを立てて行っている。
宗教・宗派を超えるということは、「寄り添う」という姿勢と密接に関わりあっている。苦難を被っている人たちの求めるものにそって応答する。こちらからすでにある教えを伝えて分かってもらうというのではない。相手の気持ちに近づいて、それをできるだけ理解し、ともに感じ受け止めるようにする。
手のひら地蔵
「手のひら地蔵」もそのような意図にそって用いられるようになったもので、地蔵を通して仏教の教えを説こうというのではない。この「手のひら地蔵」は金田住職が栗原市の僧侶たちと相談しながら作られるようになった。栗原市の陶芸家が滋賀県信楽産の粘土の無償提供と上薬がけ、窯焼きで協力、僧侶たちが主に一〇センチ前後の陶製地蔵を作る。子どもや乳児、野球少年、仙人など個性豊かな地蔵を作り、津波で亡くなった故人の形見してもらおうというものだ(『河北新報』二〇一二年五月二六日)。僧侶の手作りの「手のひら地蔵」がカフェ・デ・モンクで被災者に手渡される。
瞬時に故人を思い浮かべ涙にくれる人もいる。死者の霊を身近に如実に感じる人もおり、死者の霊を慰めるための祈りのよりどころともなる。心にわだかまっていた思いが表現の場を見いだす。グリーフケアとして抜群の力を発揮する。これを仏教の教えで説明することもできるだろう。それは宗教者の側の課題だが、被災者が今求めていることではない。金田諦応住職らのカフェ・デ・モンクは、被災者の心を解きほぐし、悲しみに耐えるのに貢献した。手のひら地蔵を手にすると、にわかに思いがこみあげて涙ぐみ、死者との心の交流がよみがえる。そこに死者が顕現する。それを自宅の居間に置いておけば、死者の霊が身近にいるように感じられる。死者の霊を慰めるための祈りのよりどころともなるだろう。大切な同伴者や親子を喪った方々に、手のひら地蔵は大きな力となった。スピリチュアルケアの場として、カフェ・デ・モンクが果たした役割を象徴するアイテムだ。
二、宗教者として被災者として
曹洞宗の若手僧侶の災害支援
福島県伊達市霊山地区の成林寺は二〇一一年から一三年にかけて、全国曹洞宗青年会震災支援現地対策本部が置かれた寺院だ。この地域は放射線量が比較的高い地域だ。定林寺副住職で、さらに放射線量の高い小国地区にある龍徳寺の住職でもある久間泰弘氏は、震災直後から現地対策本部長として同会の支援活動の中心になって働いた。その後、支援の拠点は福島市に移ったが、氏は全国曹洞宗青年会顧問兼災害復興支援部アドバイザーとして引き続き支援活動に多くの時を費やしている。
『Actio』誌二〇一四年六月号にはジャーナリストの川崎陽子氏が、二〇一三年八月と一四年四月の二度にわたり、久間氏に聞いた話をまとめた記事が掲載されている、「福島県伊達市の住職・久間泰弘さんに聞く 被災地でいのちの声に耳を澄ます」と題されたこの記事は、震災に向き合って行われてきた曹洞宗青年会の支援活動の実態と、福島原発災害の今なお続く重苦しい被害の実情を明らかにしている。私は二〇一二年春から何度かこの成林寺を訪問し久間氏の話をうかがう機会があった。川崎氏の記事は、私がうかがった話と重なる点が多く私の聞いた話を裏書きするところが多いので、長く引用させていただく。
久間氏は震災直後、布団マットの手配や簡易更衣室の設置など、現場の要望を関係機関に届ける役割も果たした。今も福島・宮城・岩手の三県で約三〇ヵ所の仮設住宅を、一日二ヶ所、週平均二回の割合で訪問し続けている。仮設住宅では集会所で茶菓をふるまい、被災者の話に耳を傾ける。曹洞宗ではこれを「行茶」とよび慣わしている。
原発被災地の困難
久間氏はこの三年間、福島県だけではなく、岩手県、宮城県でも多くの被災者の話を聞いてきた。イベントをしたり楽しい時を過ごす工夫もしてきた。だが、宗教者だからこそ頼られるというような場合もあった。「法話など有難い話を聞いて涙を流したいとか、今の環境から自分の境遇を切り離すというのですかね、宗教的なところに自分の気持ちを委ねたいと言う方もおられます」(一二ページ)。信頼を得ることによって、深い悲しみや苦しみを打ち明けられることも多い。
被災地は、日常生活で格差のある人々が一つの箱に投げ込まれたような状態なので、実際に行ってみると、平常時よりも差別とか偏見とかがいっぱいあります。家庭内不和などがあると、避難所や仮設住宅で我慢の限界を超えて、人は爆発しちゃうわけですよ。精神面で追い込まれますよね。
『チャイルドライン』という無料電話相談の活動で私が受けた電話では、女学生が『帰りたくないので、これからどこかに行きます』と言って電話を切ったことがありました。『これからどうしたらいいんでしょうか』とか、そういう話がいっぱいあるんです。(同前)
久間氏は、報道はされないが自ら命を絶つ人が増えていると捉えている。以下は二〇一三年八月に川崎氏が聞いた言葉だ。
避難するとか除染をしてもらうといった選択肢がないままに、追い込まれて死を選んだ人が増えています。あとの人に迷惑がかからないようにと死んでいく人もいます。
最初の一年は踏んばれた部分はあるが、水俣病問題に象徴されるようにこれからが大変です。みんな疲れており、ほとんど半病人状態。地元の社会福祉協議会やボランティアたちなども、被災者の自立が大切なことはわかっているが、体は動かず気持ちも向かない。マンパワーも足りないが、日本の政府や自治体の長に、トータルなヴィジョンを提示する能力がない。当座はわかりやすくていいので、それ(ヴィジョン)を出して人の命をつなげないと、人は死んでいきますよ。復興とか急場を担当する人は、それだけやればいいんですよ。政治生命などにとらわれない人間がやればいい。(一二―一三ページ)
地域社会の分断と寺院の役割
久間氏が「水俣病問題のように」と言うのは、住民同士が対立したり差別が生じたりして、近隣や家族のなかにまで分断が入り込んでしまうような状況を指すものだろう。甚だしい困難は龍徳寺のある小国地区で生じた。
小国地区など伊達市の一部では、年間積算放射線量が二〇ミリシーベルトと測定された世帯が二〇一一年六月と一一月に「特定避難勧奨地点」に指定されたが、すぐ隣でほとんど同じ状況の世帯は指定からはずされるというようなことが起こった。そして、二〇一二年12月にその指定も解除され、小学校を地域で再開することになった。ところが、2013年春、七名入学予定だった新入生がゼロになってしまった。避難先からのスクールバスが廃止になったので、長距離を親が送り迎えしなくてはならず、やむをえず避難先の学校に入れることになった。「子どもの入学がゼロ。すなわち未来がゼロになると捉える人って多いんですよね。子どもはやっぱり未来ですから」。もし小国地区が子供がいない地域になるとすれば、そこにある龍徳寺の未来も危うい。四百年から五百年にわたる歴史をもつ寺院だが存続の危機にさらされているのだ。
二〇一三年から一四年へと時は移るが、その間に状況はさらに悪化しているという。
ある意味、皆さんやっぱりしんどく、雰囲気的に重くなってきている感じはします。しんどさというのは、復興がいつまでも進まないということ。あとは原発事故があるので、将来像を描きにくいというのは、昨年の夏からずっと変わってないですからね。ええ、あきらめですね。自嘲気味に話す方が増えてきたことが、気になっています。
先日県内での行茶で、いつもお会いするおばあさんが、今回は見送りに私のそばに寄って来て言ってくださったんですよ。『遠いところをいつもありがとうございます。いつも本当に助けてもらって。待っているんですよ。また来てくださいね』と。その時の眼差しがね…。二年は経ちましたけどまだまだそういう方がおられて。私は、能登半島や中越沖地震でも、そして今度の震災以降もずっと行茶の活動をさせていただいているんですが、本当に大変なんだなあと改めて思いました。その方の眼差しがずっと忘れられなくて、その日はよく眠れなかったです。(一二ページ)
「分断」「孤立」とともに、未来を奪われているということが被災者を苦しめている。そんな被災者の気持ちがよく理解できるのは、放射性物質による被災の大きい地域に位置する寺院の住職・副住職として、自ら苦しんできた経験が作用しているに違いない。
おわりに
金田諦応氏と久間泰弘氏を例に、東日本大震災後の宗教者・宗教団体による支援活動の新しい特徴について素描してみた。そこでは、苦しむ人々の側に近づき、人々に寄り添いながら支援活動をしようとする姿勢が見られる。
これは東日本大震災後に急速に始まった動きではない。それ以前から災害支援や死に行く者の看取りを通して広がってきていたものである。金田氏や久間氏はこれまでの僧侶の活動とはいくらか色合いが異なる寄り添い型のケアの意義をよく理解している宗教者である。
宗教者や宗教団体が宗教・宗派の別を越えて、寄り添い型の支援活動に取り組もうという動きは、仙台の心の相談室にだけ見られるのではなく、各地で形をなしてきている。これは宗教的な多様性が多く、またチャプレン制が育っていなかった日本の宗教土壌の上に、新たに展開してきているものだ。行政側もそれをよい傾向として理解しているようである。今後は、広く市民社会において宗教者や宗教団体の支援がもっと積極的に受け止められていく可能性があると思われる。
参考文献
川崎陽子「福島県伊達市の住職・久間泰弘さんに聞く 被災地でいのちの声に耳を澄ます」『Actio』二〇一四年六月号
北村敏泰『苦縁』徳間書店、二〇一三年
久間泰弘「原発事故を子どもと共に生きて行く――福島の子どもは、いま」『ぴっぱら』二〇一四年五-六月号
島薗進「宗教者と研究者の連携」稲場圭信・黒崎浩行編『叢書 宗教とソーシャル・キャピタル4 震災復興と宗教』明石書店、二〇一三年
高橋原「「心のケア」に大きな力――宗教の果たす公共的役割とは」『中外日報』二〇一二年九月八日号
圭室諦成『葬式仏教』大法輪閣、一九六三年
中村元『慈悲』平楽寺書店、一九五五年
柳田国男『遠野物語』(『定本柳田国男集 第四巻』筑摩書房、一九六八年、所収)